25

1/1
前へ
/27ページ
次へ

25

「それでは、ここで新婦より、育ててくれたお父様へ感謝の手紙を送りたいと思います」  つつがなく披露宴が進んだ終盤。司会者から告げられたプログラムは、僕の把握していないものだった。  いや、確かに、十数年前に出席したことのある友人の披露宴なんかでは、そんなイベントもあった覚えがあるけど、まさか自分がその手紙を送られる当事者になるなんて思ってもみなくて。  母さんに背中を押されながら、よろよろ歩み出ると――  純白のドレスに身を包み、それに負けないほど真っ白な肌を輝かせる、世にも美しい花嫁がいた。  空調の風にたなびく漆黒の髪は、頭頂部に花冠を模した銀のティアラが煌めく。長い睫毛に縁どられた大きな瞳は、強い意志を宿してキラキラ瞬いていた。 「先生?」  柔らかい呼びかけが僕の耳に届いた。 「……美宇?」  思わず僕の口から漏れた名に、花嫁は眉を下げて微笑んだ。 「やだ、パパったら」  目の前で巨大な風船をパンッと割られたように、僕は白昼夢から醒める。  艶やかな赤い唇から零れた声は、妻のものではなかった。  僕の目の前にいるのは、紛れもなく、成長した星奈だ。幻聴が聞こえるほどに美宇に似ていようと、彼女は僕の花嫁じゃない。 「ちょっと、しっかりしてよ。私は星奈。ママじゃないよ」 「うん、そうだね」  本当に、ダメだね、僕は。  ちゃんと親として子供の巣立ちの幸せに浸らなきゃいけないのに、どうしようもないことで思い悩んで、挙句、妻と見間違うなんて。 「読むよ?」  緊張のせいか、微かに震える手で星奈はマイクを掴んだ。  パパへ。  改めて、こうやって手紙を書くのは恥ずかしいね。  だけど、せっかくの機会だから、色々書いとこうと思います。  私のママは、私が一歳の時に亡くなって、だから物心ついた時には私はパパと二人暮らしでした。  でも産婦人科医のパパは年がら年中忙しくて、私は、私の誕生をきっかけに看護師を辞めたおばあちゃんのところに預けられることも多かったです。おばあちゃんは優しいし、料理も美味しいんだけど、私はやっぱり寂しくて。  だから、パパが疲れた顔で笑って「ただいま」って言ってくれると嬉しくて首に飛びついたし、卵の殻が入ってるオムライスだって「んまっ!」って言いながらパクパク食べてました。  夜になると、布団に二人で入って、いっぱいお話をしたね。パパは友達が少ないから、大抵、大学の同級生の星野さんのお酒の失敗談か、安藤のおばちゃんのタメになる話かの二択だったね。でもどんな話でも、パパが優しい口調で話してくれるだけで、私は安心して眠ることができました。  パパがお休みの日には、一緒に図書館に行ったね。パパが難しそうな医学書を読む隣で、私も背伸びして文庫本を読んでると「あら、お利口さんね」なんて知らないおばさんに褒められて。だからなのかな、今でも本を読むのは好きだし、図書館に行くのも楽しいです。  なんだけどね、成長するにつれて、私はパパのことが嫌いになって、苦手になってしまいました。  私はママがいないことがコンプレックスで「星奈ちゃんのママはどんな人?」と、友達から聞かれる度、傷付いていました。私だって、会えるものならママに会ってみたかったって。  せめて、ママのことが知りたいとパパに尋ねても、パパは首を振って笑うばかり。  何も言ってくれないその態度に、私はすごく悲しくなって腹が立ちました。  ただ困ったことに、大人になるにつれて、パパが男手ひとつで私を育てることがどんなに大変だったかってわかるようになっちゃって。  だってそうでしょ? 私はこんな性格だし、いくらおばあちゃんの助けを借りたって言っても、家事はほとんどパパがやってて、おまけに私の学校行事にも出て。体と脳がいくつあっても足らないよ。  悔しいけど、パパを嫌いだって思う心より、パパってすごいなぁって思う心の方が、どんどん大きくなっていきました。  だからね、今日パパに報告することが――  そこまで読んで、星奈は不意に喉を詰まらせた。マイクをスタンドに静かに戻して、人形のようにがくっと頭を垂れた。 「……星奈?」  訝しんで、僕が表情を探っても、正面に立つ娘は俯くばかり。  黙ってしまった星奈に会場もざわつき始めた。  その時、 「っこんなの、違う」  ギリッと奥歯を鳴らしたかと思えば、星奈は手中の紙をぐしゃぐしゃと乱暴に丸めた。 「ちょっ、えっ!?」 「あんなっ……あんなの知っちゃったら、こんなのじゃ足りないっ!」  そう怒鳴って、星奈は力任せにマイクを再度握った。  ハウリングの高音にかぶさるように、星奈はまくしたてる。 「私、なんっにも知らなかった! パパがどんなにかママのことが好きで、だからこそママのことを話すことが辛いかなんて! 私のことだって、育てるのが嫌になることだって絶対あったはずなのに、どんなに反抗してもいっつも優しく見守ってくれた! パパは、私のパパになるために、本当に頑張ってくれた! それがどんなにすごいことかなんて……全然、これっぽっちも、理解できてなかった……」 「星奈」  予定されたサプライズの中で、土壇場で予定外の行動に出た星奈の姿を会場中が息を飲んで見守っていた。  多くの参列者は、何故星奈がこんなことをしているのか検討もつかないだろう。  僕も、僕だって、すっかり油断していたんだ。  昨夜の星奈はあっさりと受け入れて、穏やかに笑っていたから。  そんなわけないのに。  あれだけの情報を一気に流し込まれて、動揺しないわけなんて、ないのに。 「それに、ごめんなさい。『なんでパパじゃなくて、ママが死んじゃったの?』なんてひどいこと言って。そんなこと、全然思ってなかったのに。それがどれだけ、パパを傷付けるかなんて考えもせずに……」 「それは……。でも、星奈の気持ちを考えたら、そう思っても仕方な、」 「そんなことない!」  僕の言葉を断固として否定するキンキン声が、会場中に轟いた。  残響を耳に残して呆気にとられる僕に向かって、星奈は頬を紅潮させ、肩を上下しながら深く息を吸った。 「ねぇ、パパ。恥ずかしいから一回しか言わないよ。よく聞いてね。――私は、いつも優しくて、ママと私のことが世界で一番大好きで、妊婦とベビー想いで、涙もろくてお人好しなパパが、大好きです。今の私を作り上げたのは間違いなくパパで、パパが私のパパになってくれたこと、幸せだって心から思っています」  星奈の大きな丸い瞳からボロボロと涙が零れた。白磁の頬を伝って、落ちていくその雫は、さながら、彼女が耳や首に纏う大粒の真珠のようだった。  と、その光景がじんわりと滲んでいく。  あぁ、そうだね、美宇。  僕も、泣いているからだね。  誰かが言っていたことがある。  結婚式は、親の卒業式だって。  子供が一人前になって、親に感謝を伝えて、それで、子育て修了、なんだって。  本当は、星奈にもっと早く、真実を伝えるつもりだった。  星奈が高校生になったら、大学生になったら、社会人になったら。でも、できなかった。  話してしまったら、星奈ともう二度と会えないんじゃないかって。あと、ちょっと。あと、ちょっと。そう思って先延ばしにして。  きっと僕は、星奈の子育て、というものをずっとしていたかったんだ。  美宇の忘れ形見に、ずっとパパって呼ばれていたかった。  僕の子育てを終える時には、どうしても、星奈のウェディングドレス姿が見たかった。美宇が成し遂げられなかった結婚式を、どうしても、星奈に挙げて欲しかった。  朧げにぼやけた世界に映る待望の花嫁姿は、とても綺麗で、なのにとびきり苦くて寂しかった。  願っていた地点にやっと辿り着いたけど、やっぱり、星奈との別れは辛くてどうしようもない。  でも、もう言わなきゃね。 「星奈、ありがとう。どうか、幸せに――」 「で、パパにお願いがあります」  僕の父親としての幕引きは、星奈の鼻声ながらもきっぱりとした声で中断された。 「私は、パパやおじいちゃんが大事にした大浦産婦人科医院をこれからも残したい。私に跡を継がせてください」  それはたとえるなら、豪速球で投げられたストレート球が、顔にぶつかる直前に方向を変えて真横に飛んで行ったような。そんな衝撃だった。  披露宴会場も巻き込んだ涙の惜別劇は、突如形を変えて、予想外の着地を遂げた。僕の思考能力も追いつかないほど急速に。 「えーっと……」  答えに窮していたら、客席の方から「当たり前だぁぁぁ!」と喚く声が耳に刺さる。  直後に続いた咳もあって、振り返らずとも前院長の快諾の声だとわかった。  刹那、静まりかえる会場だったが、次の瞬間にはわぁぁっと割れんばかりの拍手が湧き上がった。  僕が目を白黒させていると、星奈が赤い鼻を擦りながら、僕にウインクをしてみせた。 「ということで近々、大浦産婦人科医院に転職するので、これからもよろしくお願いします。パパ」  まったく。本当に大した娘だよ、僕たちの娘は。  ねぇ、美宇。  へなへなと座り込んでしまった僕の腕の中で、美宇はやっぱり笑っていた。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

140人が本棚に入れています
本棚に追加