エピローグ

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エピローグ

 真夏の湿った風をその身に包んで、パステルピンクのカーテンが膨らんでいる。  カラフルなユニコーンが描かれたそのカーテンは「女の子の部屋は、これくらいメルヘンにしなきゃ!」と美宇が選んだものだ。  もっとも、小学校高学年を超えた頃から、由来も知らない星奈は「こんなの子供っぽい」と散々変えたがったが、僕が頑として了承しなかった。  そのカーテンを捨てるという行為によって、それを買った時の嬉しい気持ちがどこかに消えてしまいそうで、どうしても躊躇ってしまったんだ。  僕が座っている窮屈な子供用の椅子も、傷だらけの学習机だって、とうに捨てて良かったのに僕はそのままにしていた。  星奈がいつ帰ってきてもいいように、なんて自分に言い訳をしていたけど、本当は僕の決心がつかないだけだった。  でも、その言い訳も今日でおしまい。  だって、星奈にはもう、帰る家が別にあるんだから。  星奈が帰るのは僕のところじゃない。文吾さんの待つ家だ。  年齢を重ねていつの間にか皺だらけになった僕の手には、星奈からもらった手紙が握られている。  少しだけ目を通したけど、どうやら途中からはアドリブだったらしく、手紙自体は短い。思い出話と僕への愚痴とそして、病院を継ぎたい、との言葉で締めくくられていた。 「全く、参ったよ」  星奈が医学部に進学した時、僕はてっきり、産婦人科は選ばないものだと思っていた。いや、むしろ医学部に行ったこと自体にも驚いたが、母さんから「美容外科に進んで、がっぽがっぽ儲ける気みたいよ」なんて言われて納得していたんだ。星奈は、生前の母同様、医者なんて割に合わないって公言していたから。  まさか、母さんもグルになって、僕と、ついでに父さんを騙していたなんてね。しかも理由が「パパや産婦人科を尊敬しているって知られるのが恥ずかしい。それに、跡を継ぐなんて期待させといて実現しなかったら嫌だから、前期研修医が終わるまでは言いたくない」だなんて。なんとも、意地っ張りな星奈らしい。  明日からはまた忙しくなるなぁ。星奈がうちに来るだなんて、しかも部下になるなんて。多分、院長の僕より強い女医さんになっちゃうんだろうなぁ。  その様を想像して苦笑する。でも、明日のことは、明日考えよう。  今日、星奈の結婚式が無事に終わった今日、やるべきことは―― 「美宇、お疲れ様」  僕は、机に置かれた美宇の写真に、そう語りかけた。 「今日でようやく、僕たちの子育てが終わったんだね」  星奈が聞いたら怒りそうだね。「私はとっくに独立してるのに!」って。  ……うん。多分ね、僕だけがずっと取り残されていた。  星奈はどんどん大人になって、自分の人生を歩んでいるのに。  僕だけが星奈をまだ小さい子供のように思っていて、星奈がこの部屋でお腹を空かせて僕の帰りを待っているとか、そんなことを思っていた。  けど不思議なことに、花嫁姿の星奈を目にしたら、もうそんなことはないんだって。星奈は大人の女性になっていて、僕の庇護なんてもう必要ないんだって、自然と理解できたんだ。  星奈はこれから、大浦産婦人科医院に勤めることになる。ゆくゆくは僕の跡を継いで院長になるんだから、勉強だったりやるべきことはたくさんだ。  激務に備えてなのか、これまた僕の知らないうちにこの近所に越してきていたみたいだけど、夜勤で遅くなったりしたら、星奈はまた、この懐かしい家に泊まりに来ることもあるかもしれない。  その時のために、この部屋も整理しとかないとね。  学習机に刻まれた直線状の傷を指でなぞる。これは、小学一年生の時の星奈が夏休みの自由研究を作っている際に付けたものだ。ペットボトルを山ほど使って、プロペラとか風鈴とかよくわからないものを作っていたね。あれもどこかにしまってあるかな。  この思い出がいっぱい詰まった机も捨てなきゃね。でももう、寂しさはない。ただちょっぴり、切なくなるだけ。  ピンクのカーテンに切り取られた窓からは、白く瞬く星々の河が悠然と流れている。  今夜は七月七日だからね。しかも、星奈の生まれた日ときた。そりゃあ神様だって張り切って、見事な星空も作っちゃうか。  そういえば、星奈が生まれた二十六年前の今日も、星が降ってきそうなくらい綺麗な空だった。深夜三時、家に帰る道すがら、僕はお臍のあたりをふわふわさせながら、そんな夜空を見上げていたんだ。  僕たちの思い出は、いつだって星と共にあったね、美宇。  ふう、と息を吐くと、美宇の写真がふわり浮いた。  ちょっとムッとした顔で、カメラを遮るように手を広げている。 「ねー、先生。まだ見ないでって言ったじゃん!」  耳にキンキンと響く、抗議の声が今にも聞こえてきそうだ。  でもね、その時の僕ときたら、謝るのも忘れて夢中でシャッターを切っていた。だって、あんまりにも美宇が綺麗だったんだもの。でも、美宇に怒られながらも、撮っておいて良かったよ。  お陰で、ウェディングドレス姿の美宇をこうやって、時が経っても見ることができたんだから。  ねぇ、「僕の」花嫁様。  終
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