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「は!? なんなの、その妊婦。中絶ってベビーを殺すことなんだぞ? その事の重さ、わかってねーの?」  美宇と出会った翌日。非番だった僕は、大学の同級生の星野(ほしの)と飲みに行っていた。  星野も僕と同じ、産婦人科医院の跡取り息子。普段は寡黙で勉強熱心な良い医者なんだけど、お酒が入るとすこーし口が回りすぎちゃうところがある。  この日も職場の与太話や症例とか、積もる話をしていたんだけど、その最中、どうしても美宇の話を星野に聞いて欲しくなった。  僕はどうやったら彼女の力になれて、彼女が求めているものが本当は何なのか。  まだ僕の中で答えが出ていなかったから、数少ない友人に相談すれば、何か光明が差すかと思ったんだ。 「昨日の態度を見る限り、中絶の深刻さはまだ理解してないかもね。だから父さんもあんなに怒ってたんだろうし。僕だって、できることなら中絶なんてやめろって、ベビーを救いたいって思うさ。でもね、あの子が僕に何も話す気がないから、状況もわからずに『産んで育てろ』なんて言えないよね」 「いやいやいや。だからって、こういうタイプの女と話し合いは無理だろ。産むなんて無理、ってなぁ。そんな台詞吐くくらいなら、ちゃんと避妊しとけって話だろ? 許せねえなぁ」  星野が怒り混じりにビールジョッキをテーブルに叩きつける。ガンッと響く鈍い音に胃がぎゅっと縮まったような気がした。 「俺たち産婦人科医はさ、命の誕生のために毎日必死こいて働いてるわけだろ。バカな女が考えなしに作った子の殺人に加担するためじゃねぇんだわ!」 「ちょっと星野、それは言い過ぎだよ」 「んだよ、宙。間違ってねぇだろ?」  確かに、僕たち医師は皆、ベビーが少しでも健やかに生まれてくることができるようにと日夜懸命に職務に従事しているし、休みの日でもそのための勉強だって欠かさない。そんな「命」に対して情熱を傾けている医師だからこそ、それを絶とうとする行為を嫌悪してしまうこともある。星野の怒りだってもっともだ。  僕だって、中絶なんて悲しいこと、なくなればどんなにいいかと思うよ。 それでも―― 「星野。『考えなしに作った子』って言ったけどさ、なんで中絶ってなると、妊娠した女の人だけが悪いって決めつけるのかな? 少なくとも、『考えなしに作った』相手の男の人もいる。女の人の生活環境や健康状態によって、妊娠継続が難しいことだってある。でもそんなことを、僕たちに素直に話してくれるとも限らない。妊婦が中絶という選択を選んだからって、それを責めるのは、僕たち医師がしちゃいけないことなんじゃない?」  僕の強い口調に、ジョッキを口に運ぶ友人の手が空中で静止した。アルコールが回って赤くまだらに染められた顔が、怖々と僕の瞳を覗き込んでくる。 「宙、お前、まだあのこと、」  星野の探るような声は、グラスが盛大に割れる音、そして重いものが倒れたダンッという嫌な音に遮られた。 「わっ! ちょっとお姉さん、大丈夫!?」  途端に僕と星野は酔いなど吹っ飛ばして、反射的に大声の方向にダッシュする。医師としての使命感が足を動かした。  駆けつけた先に広がっていたのは、硬い床に倒れ込む女性店員。彼女の体の下には、砕け散ったガラスの破片が煌めき、どろりと赤い液体が広がっていく。  僕は顔からさぁっと血の気が引いていくのを感じた。 「だっ、大丈夫ですか!? これ、血……? 僕は医者です! 傷を見せて、」 「うっさい」  慌てて女性の肩に手を触れようとした瞬間、驚くことに彼女はその手を払い除けてすっくと立ち上がった。さらに驚いたことに、 「葛西さん?」  白い制服を赤く染めた女性店員は、そう、件の美宇だったんだ。  こんなことってあるんだね。昨日会ったばかりの患者と、初めて入った居酒屋でばったり会っちゃうなんて。 「これ血じゃなくて、ブラッディ・メアリーだから」  ブラッディ・メアリー。十六世紀のイギリス女王に付けられた異名を冠したカクテルは、ビールをトマトジュースで割ったもの。ミステリーやなんかでありがちな勘違いに、がくっと力が抜けると同時に、大きな怪我がなかったことにほっともしていた。  でも、だとしたら美宇の紙みたいに白い顔色の原因は……。僕は直感した。多分、つわりで気持ち悪いんだろうって。 「星野、後片付けとか頼んでもいい? 僕、この子をトイレに連れてくから」  背後で呆気に取られていた星野に、僕は耳打ちした。 「え? は? トイレ? なんで」 「この子、さっき話してた妊婦なんだ」 その一言だけで、星野には十分だったみたいで、軽く頷いて僕の背を押してくれた。  なんだかんだ言っても、星野は妊婦には優しいんだ。彼は良い医者になるって、この頃から僕はわかっていた。 「大丈夫? 気持ち悪くなくなった?」  その後、僕はトイレに篭って吐きに吐いた美宇をおぶさって、夜道を歩いた。  その日は星も見えない真っ暗な夜で、冬の足音が聞こえる神無月らしく、冷たい風が剥き出しの手を舐めていっていた。  薄ぼんやりした街灯の下で抱えた美宇は、成人女性にしては軽くて心配になるほどだった。これで本当に、もう一人分の命を抱えているんだろうかって。 「まだ、気持ち、悪い」  負けん気の強いいつもの美宇なら、大人しく背負われてなんかいないだろうけど、この時ばかりは抵抗もしなかった。それだけ、しんどかったんだろうね。 「つわり中なら、バイト休めば良かったのに。食べ物の匂い、きつかったでしょ?」 「先週までは休んでたけど、お金なくなってきてシフト入れちゃったから、休めないじゃん」 「君は正社員じゃなくてバイトなんだから、体調不良で休みますーで良いんだよ」 「そんないい加減なの、やだ」  美宇の小さな反駁に、僕は正直びっくりしていた。  その時まで、美宇のことをどこかで、自分勝手な理由で中絶する子だって、星野が言うみたいに救えない子だって思ってしまっていたんだ。  でも、もしかしたら――攻撃的な言動が誤解されやすいだけで、根は真面目な子なんじゃないのかって。この一言でやっと、美宇の本性を垣間見た気がした。 「そうだね。でも、結局倒れてたらお店にとってはもっと迷惑だよ。それに、強い衝撃を与えちゃったから、お腹の子だって心配だ。葛西さんの家に着いたら、不正出血とかないか診させてもらうからね」  僕の小言に、美宇は卵形の頭をぐりぐりと背中に押し付けて、ささやかな反抗をしてみせる。でも、何も反論しなかったのは、美宇自身もそれが正論だとわかっていて、しかも体にも不安があったからなんだろうね。  居酒屋から五分くらい歩いた静かな住宅街の中で「あのアパート」と指差して、美宇は僕の背から降りた。  温もりが消えて寂しい背中を感じながらも、あと少しだ、と安堵の息を吐く。のに、その男は、美宇のアパートの目の前にいたんだ。 「美宇、久しぶりだな」  異変はすぐにわかった。  弱っていたはずの美宇の体が男を見た途端に、ぴんと張り詰めたから。  仄白い街灯に照らされてもわかるほど、テカテカと脂ぎった色黒な肌。目尻の皺や小太りでぽっこり出たお腹の感じからすると、服装は若作りをしているけど五十代くらいの年齢に見えた。  美宇のお父さんって可能性もあったけど、その時の僕は全くそう思わなかった。  だって、その男が美宇に向ける視線が、あんまりにも下卑たものだったから。 「体調悪いって言ってたけど、そろそろ良くなったか?」  気味悪いほどに真っ白で整った歯を見せながら訊く男。美宇は俯いて、小さな拳を握り締めていた。 「まだ。ねえ、なんで急に家まで来るの? そういうの困るって」 「困るって言われても、それはこっちの台詞だろ。先月も今月も会えないなんて、契約違反じゃないか? これじゃあ来月の振込はやめざるを得ないぞ」  契約、振込。  穏やかじゃない単語に僕の胸はざわついた。決して友好的な空気でもないのに、終始ニヤニヤしている男の顔が更に、嫌な気持ちを加速させた。 「もっとも」  耐えるように唇を真一文字に結んだままの美宇の肩を、ぬるぬると男の左手が滑っていく。途中、ぎらり下品な光を放ったのは、薬指に嵌った太いリングだった。 「体調不良の理由によっては、情状酌量も考えるけど」  美宇が奥歯を噛み締める硬い音が、僕には聞こえた気がした。  事情はわからなかった。  けど一つ確かな事は、美宇がこの男をとてつもなく嫌悪している、ということだ。 「――あのっ」  気が付いたら、僕は声を上げていた。 「彼女、早く家に帰してあげたいんですけど。外なんて寒いし、具合悪そうだし」  途端に男の顔から厭らしい笑みが抜け落ちて、瞼の下に暗い影が落ちた。 「何、お前。美宇とどういう関係?」  不甲斐ないことに、その攻撃性をむき出しにした語調と威圧するようなオーラに、僕は言い返せなくなってしまった。だって、こんな風に真っ向から敵意を受けたことなんて、これまでの人生で一度だってなかったんだ。 「大学の、友達。いいから帰って。連絡するから」  気圧されてしまった僕に代わって、掠れた声で反撃してくれたのは美宇だった。男が何か言う前に、美宇は覚束無い足取りでアパートに一直線に入って行く。庇うつもりが庇われるなんて情けないけど、僕も慌てて美宇について行くしかなかった。  そんな僕らの背に、男のべっとりとした声が投げかけられる。 「妊娠ならちゃんと言えよ。そうだな、女がいいな。美宇とセットで可愛がってやるよ」  本当に、今こうやって思い返しても、気持ち悪さしかない言葉だね。  反射的に振り返って目にした男の笑みは、煮詰められた醜さが表れたような、そんな悪意に充ちたものだった。  未だに、あれ以上に胸焼けする笑顔なんて、お目にかかったことは無いね。  頭を殴られたような衝撃だった。  いや、多分、最初にこの男を見た時から、薄々は予想していたんだ。  こういう時の嫌な予感って、大抵当たるからね。
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