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 美宇は部屋に入るなり緊張の糸が切れたのか、ベッドに沈み込んだ。  それほどに、あの男と対峙するのにエネルギーを消耗していたんだろう。蒼白な顔で横になる美宇は、とても痛々しかった。 「とりあえず、葛西さんも赤ちゃんも大丈夫そうだね」 「そう」 「で、あの男のこと聞いていいかな?」  生気のない美宇の瞳だけが、それでもじろりと僕を見つめる。それはさながら、知らない生物を見定めようとする猫のようだった。  だから、僕はつい口にしてしまったんだ。 「大丈夫。僕は君の味方だ」って。  僕の大袈裟な言葉に、ふっと美宇の唇が綻ぶ。  思えば、美宇の笑顔を見たのは、この時が初めてだった。 「なにそれ」  その声だって、少しだけ、柔らかさを帯びていたと感じたのは、僕の気のせいじゃなかったと思う。 「君がどんなことをしていたとしても、何を望んだとしても、僕は責めたりなんかしない」  ガラス玉みたいに透き通っていて、だけど無機質な美宇の目が大きく見開かれた。 「嘘」 「嘘じゃない」 「だってさっき、バカ女の殺人って」  心の中で星野を呪ったよ。まさか本人に聞こえていたなんて、ね。 「僕は君のことをそんな穿った見方しないよ」  伝わるだろうか。すごく不安だった。 「僕は、君の味方だ」  せめて、再び口から零れたこの言葉だけは、美宇に届いていたらいいと願ったよ。  星明かりも差さない暗い部屋の中で、沈黙だけが重く立ち込めていた。 「社長」 その名がぽつり呟かれた。 「本名は知らない。大学生になってすぐ、SNSで知り合った」  まるで独り言のように、美宇は淡々と言葉を重ねていく。 「なんか建築関係の会社をやってて、すごくお金持ってて。あたしのこと世話してやるって言ってきた」 「世話、って?」 「毎週末、社長と『オトナあり』のデートをする代わりに、月に十万円支援してやるって。パパってやつ」  オトナありが何を指すかは、職業柄知っていた。大人の関係、パパ活界隈で使われる隠語で、所謂肉体関係を表している。  突然、海の底に連れてかれたみたいに、肺から空気が消え失せた。  わかっていた。  あの男がいやらしくちらつかせた単語から、美宇とそういう関係にあるんだってことくらい。  我慢できないほどの息苦しさに、酸素を求めて僕は喘ぐ。  不思議だね。この時はまだ、僕にとって美宇は昨日会ったばかりの患者なのに、どうしてそんなに苦しい気持ちになったんだろう。  きっと、出会った時からもう、僕は美宇に惹かれていたんだろうね。 「じゃあ、赤ちゃんの父親は、その、社長?」 「他に心当たりないから、多分」 「でっ、でも避妊は? 当然、してたんだよね?」 「……」  この時点で既に、僕はさっき飲んだビールを吐きそうなくらいに気持ち悪かった。胃酸が喉元まで上がってきて、喋ることすら辛かった。  なのに、これ以上に最悪なことをこの後、聞くことになるなんて。 「穴」 「え?」 「コンドームに、穴、開いてた」  体中の血が沸騰するかと思ったよ。  グラグラ煮立ちそうな脳裏に、あの男――社長の醜悪な笑みが浮かんで、焦げついて、消えちゃくれなかった。 「わざと、だよね?」  あまりの憎しみで、唸るような声音になるのを僕は止められなかった。 「さぁ? でもそういうことをしたいって言ってたことはあったから、願望はあったんじゃないの?」  さしたる興味もなさそうに美宇は髪を弄ぶけど、去り際の捨て台詞からして社長が故意だったのは間違いないだろう。  これは今でも思っていることなんだけど、日本の性産業は、時に犯罪まがいの行為を堂々と表現し過ぎだと思う。  女性は嫌がっていても感じているだとか、妊娠させることが一種のステータスだとか。全部じゃないことはわかっている。でも、その歪んだ認知のせいで、苦しんでいる女性だっている。  美宇のように。 「妊娠のこと、社長には、」 「言うわけないじゃん! 言ったってアイツを喜ばせるだけで、生まれてくる子だってきっとアイツのおもちゃにされる! だからこの子は、生まれてなんてこない方がいいの!」  諦念の滲んだ声が一転、美宇は突如、感情を爆発させた。  暗くてその表情まではわからなかった。けど、激しい悔しさや嘆きは空気越しにビリビリと伝わってきたよ。  なのに愚かな僕は、美宇の悲しい言葉にそれでも抗おうとしてしまった。 「でも、社長から逃げて産んで育てれば、」 「はぁ?」 美宇の鋭い声は、鼓膜にキンキン刺さって、痛かった。 「そんなことしたら、お金もらえなくなるから生活もできない! そもそもあんな奴、縁切れるなら今の時点で切ってる。あたしが大学に通って今まで通り生活するためには、社長との契約は続けるしかないし、だから産むことなんてできない!」 「そんな……」 「ははっ、わかってる」  乾いた笑いの後、ボスンと美宇は枕に顔を沈めた。 「それでも、あんたたちお医者様は『中絶は命を殺す行為だ』ってあたしを責めるんでしょ? ネットでもさ、『中絶するような女は、殺される赤子と一緒に死ねばいい』とか言われてるしさ」  くぐもった声で枕に絶望を刻む美宇を前に、僕は動けず、ただ足元に座り込むだけだった。 「そんなに言うなら、もういっそ、死んでやろうか?」  その言葉が冗談ではないことは、僕の手元に当たる冷たい薬瓶が如実に語っていた。  軽々しく中絶を望む人なんていない。  軽々しく自分の体を傷付けようなんて思う人なんていない。  そこにあるのは、中絶という困難と比較しても尚、産んだ先に広がる厳しい現実があるから。だから、彼女たちは中絶を選ぶのだ。 でも、世間やネットという顔の見えない他人は、そんな事情などお構いなしに彼女たちを声高に糾弾する。まるで、それが正義かのように。そして、追い詰められた彼女たちは……  僕は、美宇と会う以前に、そのやるせない事実を知っていた。
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