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 当時、僕は前期研修医だった。  医学部を卒業して国家資格を取ってすぐ。言ってみればひよっこのお医者さんだった僕は、広く浅く医療現場を知るために、様々な科を回って勉強していた。  今は産婦人科医の僕でも、外科、内科、耳鼻科、いろーんな科に行って散々揉まれて、知見を深めた。  その中でも特にキツかったのが、救命救急科。救急車で運ばれてくるような命の瀬戸際に立たされている患者を連日見続けるのは、常に崖っぷちを綱渡りしているようなヒリヒリした感覚だった。  産婦人科医だって、命を扱っていることには変わりない。けど、救急はことさら、自分の一挙手一投足に生死がかかっていて、とてもじゃないけど僕には無理だって思ったよ。  そんな日々の中で、僕には一生忘れられない患者が来た。  患者と言ったけど、彼女は運ばれてきた時には出血多量で心肺停止状態。たとえ、どんな名医でも、彼女とその子供は救えなかったと思う。  ――そう、彼女は妊婦だった。  発見されたのは、公園のトイレ。 散歩に訪れた老人が女子トイレから大量の血が流れ出ていることに気付いて、救急車を呼んでくれた。  救命士が駆け付けると、トイレの中で出産して血塗れの妊婦と、青白いベビーがいた。  まだ温かい、まだ救えるかもしれない、と病院まで運んだけど、間に合わなかった。  出産で死ぬなんて、って知らない人は思うかもしれない。けど、別に珍しいことじゃない。ただ、医療の発達した日本では少ないだけだ。  特にこの妊婦は、子宮内膜炎、つまり、なんらかの感染症を発症していたようだから、出血が多くなってしまうリスクは大きかったんだ。  それでも病院で産むことができれば、彼女もベビーもおそらく救えただろう。なのに、それができなかった。  それどころか、彼女は一度も妊婦健診にも訪れていなかった。いわゆる「未受診妊婦」だ。だからいざ陣痛が来た時、頼るべき病院が、産科医がいなくて、孤独なまま出産して亡くなってしまったんだ。  その頃もう産婦人科に進むことを決めていた僕は、そのことが悔しくて、悔しくて堪らなかった。  やめた方がいい、って先輩医師には止められたけど、彼女のことを調べてみた。  彼女は水商売で生計を立てていたフリーターだった。妊娠がわかると相手の男は逃げ、困り果てた彼女は子供を堕ろそうと、一度、産婦人科を訪ねていた。  でも、あろうことか、その病院で「中絶なんて」とこっぴどく叱られて人格否定までされてしまった。彼女は相当ショックを受けたんだろうね、もう二度と産婦人科に行くことはなかったそうだ。  親とも疎遠で、親しい友人もいなかったらしい彼女の心境を知る人は皆無だった。  僕にわかったのはここまで。彼女には、この状況をどうしたらいいのかと相談する相手がいなかった。そうこうするうちにどんどんお腹は大きくなって、ついにベビーはこの世に出てきて――間もなく亡くなってしまった。  先輩が止めた理由がわかったよ。  この事実を知って、僕はどれだけ打ちのめされただろう。  どうしようもない闇に触れてしまったような、そんな感覚だった。彼女とベビーの臍の緒が繋がったままの遺体を夜中に突然思い出して、その孤独と絶望の深さを思って、痙攣が止まらず眠れなくなってしまう。そんな症状に悩まされるようになったのは、その後すぐだった。  何度も真夜中に呻き、吐きながら涙を流し、僕は悟ったよ。この苦しみを癒す術は、多分、一つしかない。  こんな悲劇を繰り返してはいけない。  運命を覆す分岐点があったとしたら、唯一訪れた産婦人科。  そこで彼女を責めるのではなく、彼女に寄り添えていれば。中絶したとしても彼女だけは救えたし、適切な福祉を案内できれば、母子二人、違う未来もあったかもしれない。  だから僕は、誓った。  僕は、どんな妊婦も、中絶を望む妊婦だって否定はしない。彼女たちが幸せになる道を、一緒に探すことができる、そんな産婦人科医になるんだって。  あの悪夢から逃れるために。 「葛西さん」  そうは言ってもね、人の心に寄り添うって簡単なことじゃない。  ましてや、昨日今日会ったばかりの初対面の人に、自分のことを何でもかんでも話せなんて要求するのはとんだ無茶振りだって、あんまり友達のいない僕でもわかる。  だから、僕にできることは、 「お腹、空いてない?」  黄金色に煌めくカリッと焼きあがったポテトフライ。僕は食欲を刺激する魅惑的なその香りをたっぷりと鼻腔に吸い込んだ。 「うわー、いい匂い。あれだね、時間が時間だから背徳感すごいね」  その時はもう既に日付が変わっていたから、ジャンクフードを食べる時間としては、たいそう不適切だった。  僕の弾む声と対照的に、美宇は当惑した表情を浮かべていた。 「うん、え? いや、なんで急にマック食べることになってんの?」 「だって葛西さん、お腹空いてるでしょ? あんだけ吐いてたんだから。空腹だともっと気持ち悪くなるだろうし、何より元気でないよ?」  むう、と唇を突き出す美宇だったが、空腹なのは確かなのか、ごくりと唾を飲んだ。 「でも、また吐いちゃうかも」 「だから、これなんだよ。マックのポテトなら、つわり中でも食べれる人多いんだよ? ほら、おいで」  ポンポンと床を叩いて、自分の隣に美宇を誘った。半信半疑の体で怖々ベッドから足を下ろして、美宇は小さな口でポテトを食む。  一口、また一口、と食べ進める度、美宇の瞳が大きくまん丸になっていった。 「……美味しいっ!」  ぱっと花開くように、美宇の顔に大輪の笑みが咲いた。 「――っ」  恥ずかしい話だけどね、その笑顔があんまりにも可愛くって、僕は一瞬固まってしまったんだ。 「えっ、なんで!? 気持ち悪くて、何食べても吐いてたのに」  幸いにも、僕の変化につゆも気付かず、美宇は嬉しそうにポテトをパクパク口に放り込む。 「ん〜! 美味しい〜!!」  両腕を振ってはしゃぐ姿に、僕は自分の選択が間違っていなかったことを確信した。  ありがとう、安藤さん。  友達ができないと悩んでいた高校時代、「同じ釜の飯を食うって言葉もあるくらいだからね、美味しいご飯を一緒に食べれば自然と仲良くなるものよ」って有益なアドバイスをくれて。  惜しむらくは、僕がそもそも人をご飯に誘う勇気すらなかったことだろうか。  こんなお手軽かつ効果的な方法を実践できなかった高校の頃を思えば、大学で星野という友人ができたことは奇跡に近いのかもしれないね。  それから僕らは、本当にたわいもないことを取り留めもなく喋った。  膝を突き合わせて話してみれば、美宇は言葉遣いにはドキリとするものがあるけど、至って真面目で負けず嫌いで、オシャレとブランド品が好きな女子大生だった。  美宇が大学で法律を学んでいることも、この時に聞いたんだっけ。  僕が「法律なんて一番苦手な分野だよ」って尊敬の眼差しを向けたら「お医者さんが何言ってんの」って笑われたね。  気が付いたら夜が明けていて、空を東雲色に染め上げる朝陽に僕は胸を撫で下ろした。  星明かりも差さない真っ暗な部屋に美宇を一人残すなんて、あの薬瓶を見てしまった後だとできそうになかったから。 ********************  そういえば、今日も星は一つも見えないな。  美宇との出会いから、社長との関係を聞いたところまでを回顧して、所々ぼかして書き記してから、僕は顔を上げた。  社長の存在は、どうしたって彼女を傷付けてしまうだろう。それに僕だって、あの生々しい言葉を一つ思い出す度に、ナイフで刺されたみたいに熱く冷たく激しい痛みを感じる。  いつの間にか額に汗が滲んでいたのは多分、夏の熱気のせいだけじゃない。  一旦休もう。  椅子から立ち上がって、浄水器のレバーを捻る。  冷たい水がコップを満たしていくのを見つめながら、僕はぼんやり考えた。  あの日、偶然倒れたところを助けたという恩があったとしても、その前日まで頑なに僕に妊娠の経緯を話さなかった美宇が、部屋に上げてくれただけでなく、なんであんなに色々喋ってくれたんだろうって。  きゅっと水栓レバーを下ろすと、水位はギリギリ、表面張力で辛うじてコップの淵に張り付いていた。  きっとあの時の美宇も、この溢れる直前のコップみたいに気持ちがいっぱいいっぱいで、誰かに何かを話したかったのかな?  でも、もう、答え合わせはできないね。  彼女に掛けることができない言葉を冷水と共に飲み込んで、僕はまたボールペンを握った。
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