1/1
前へ
/27ページ
次へ

 あの日、マックのポテトでオールナイトしたあの日以来、僕は手に入れた美宇の連絡先に、毎日何かしらメッセージを送っていた。  担当医が患者に対してそこまでするなんて、今考えるとやり過ぎだよね。ちょっと問題になってもおかしくない。  あれからいくらか産婦人科医としての経験を蓄えた今の僕なら、ソーシャルワーカーさんに頼むとか、もっとスマートなやり方で美宇を支援したのかもしれない。  ……いや、でもやっぱり、美宇は僕にとって特別な人だったから。  過剰だと思いつつも、美宇が元気でいるかを自分で確かめないと、ソワソワして診察も手につかなかった。  この時点で、自分の感情に気付いても良さそうなものなのに、そこがわからないのがやっぱり僕、って感じだよね。  美宇も美宇で、嫌がるでもなくメッセージを律儀に返してくれて、いつの間にか僕を「先生」って呼んでくれるようになっていた。  そんな日々が一週間ほど続いて、美宇は妊娠十五週を迎えた。  やり取りを重ねるうち、次に美宇が病院に来るまでにもう一度直接会えたら、と思うようになって、僕は勇気を出して、美宇をドライブに誘ってみたんだ。 「でもびっくりした。噂には聞いてたけど、つわりってほんとに急に終わるんだね。朝起きたら、白米も何でも食べれるようになっててさー」  僕が運転する車の助手席で、美宇はけろっとした顔でホットココアを啜っていた。  美宇はびっくりするくらい甘党で、普段飲むものにはほとんど砂糖が入っていた。水、緑茶、仕事中のコーヒーで体内の水分が構成されている僕には、それはそれはカルチャーショックだったな。  もっとも、つわり中にはそれらもダメになっていたみたいだから、久しぶりの甘いドリンクに感動して舌鼓を打つ美宇は、無邪気な少女のようでとても愛らしかった。 「元気そうで良かった。つわり辛そうだったもんね」 「ね、つわりってさー、皆あんなに辛いの? 何食べても吐くから、何も食べないじゃん。でもそうすると空腹でまた気持ち悪くなって、吐くものないから胃液が出るんだよ? どんな苦行だよって。妊婦とか母親ってすごいね、あんなのに耐えてたなんて」 「いや、葛西さんは吐いたり倒れたりしてるから、重症だと思うよ。つわりがない人だっているから、妊娠って個人差が大きいんだよね」 「うっわ、まじか。はぁ、あたしって運悪いなー」  冷たい風に錦糸のような黒髪を靡かせて、美宇が睫毛を伏せる。  その仕草とアンニュイな横顔が、まるでちょっとしたドラマのヒロインみたいで見とれそうになってしまって、ドライバーの僕は慌てて視線を逸らした。  そうしたら美宇ったら、その沈黙を何やら解釈したのか、ふっと薄く笑った。 「いや、突っ込んでよ! 運とかそういう問題じゃないーって」 「え?」 「先生、そんな感じだとモテないでしょ? 絡みにくいもん」 「そんなこと、は、あるね」  否定できないのが悲しいけど、僕はモテない。今も昔も。ついでに言えば、同性からもモテない――つまり友達も少ない。会話のテンポがいまいち遅いのが最大の原因だろうというのが、星野の見立てだ。でもこれは、父さんにも母さんにも似ていない僕生来の突然変異だから、もうどうしようもない。  そんな僕と対照的に、可愛らしい容貌からして異性から人気がありそうな美宇は、にやりと唇を歪める。 「やっぱりー。にしては、星空を見に行こう、だなんてお洒落なデートに誘うよねー」 「いやいや……って、デート!?」  突拍子もない美宇の発言に、危うくハンドルをあらぬ方向に切りかける。美宇とのドライブは、事故の可能性が至るところに潜んでいた。 「えっ、違うの?」 「いや、その、いや、」 「なーんて、うっそー。先生、あたしを元気づけようとしてくれてるんでしょ? 前に散々弱音吐いちゃったし。メッセージ毎日くれてんのもそうでしょ?」 「まあ、そんなとこ、かな」  頷きながら、僕はちょっぴり冷や汗をかいていた。美宇を元気づけようとしていたのは本当だ。けど、この時、僕が美宇と二人で出かけられることに浮かれていたのは、紛れもない事実だったから。  でも、モテないどころか女性と付き合ったことがなかった僕には、自分の気持ちがこんなにふわふわしている理由すら、この時はわかってなかったんだけどね。  僕らが住む街から車で一時間、幼稚園や小学校の遠足でもお馴染みな山の中腹が、この日の目的地だった。 「うわぁっ」  夜空いっぱいに広がる満天の星に、美宇は子供みたいな歓声を上げた。 「先生、見て! すごい星空っ!」  一方僕は、車が止まるなり飛び出してしまった美宇を追って、息を切らしていた。何故って? 大事な妊婦さんのために、大判の毛布やら温かい飲み物、レジャーシートなんかを抱えていたからだよ。 「ちょ、葛西さんっ。かっ体、冷やしちゃ、ダメだって」  どうにか追い付いてぜいぜい肩で息をする僕に、美宇は不服そうに唇を尖らせていた。 「先生、そろそろ苗字で呼ぶのやめてくんない?」 「はあっ、はぁ。え? なん、で?」 「あたし、自分の苗字嫌いなの」 「じゃ、じゃあ、なんて、呼べ、ば」 「名前でいいよ。美宇って呼んで」  そう言ってにっこり破顔する美宇は、夜空に瞬く星に負けないくらい、キラキラ輝いて見えた。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

138人が本棚に入れています
本棚に追加