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「東京でも、こんなに星って見えるんだね」  僕に促されて、肩から毛布にすっぽりとくるまった美宇がしみじみと呟く。 「あたしの地元もさ、すごく星が綺麗なところだったから、ちょっと思い出すなー」 「かさ……美宇の地元って?」 「群馬。山ばっかりで、自然以外何もないような所」 「そっか。いい所だね」 「全然。あたしには、息が詰まりそうだった」  美宇が顔を上げると、その拍子に毛布がずり落ちる。僕は急いで、その肩に毛布を掛け直した。 「ありがとう。先生は優しいね」  美宇から初めて漏れた素直な感謝に、僕はつい照れてしまって、何もやましいことはないのに、もごもご言い訳めいた言葉を返した。 「たっ、大切な患者さんに体冷やして欲しくないからね。ほら、赤ちゃんのために、さ」 「赤ちゃんのために、か」  少し寂しさを帯びた美宇の声音。  本当は、美宇自身のことだってもちろん心配していたんだけど、あの時の僕はそれをストレートに美宇に伝えられるほど、器用に生きちゃいなかった。まあ、それは今でも変わらないんだけどね。 「ね、先生はさ、どんな環境で育って、なんで産婦人科医になろうと思ったの?」 「え? 何、突然」 「なーんとなく。どうやって育ったら、こんなバカじゃないかってくらいのお人好しになって、医者みたいな割に合わない職業に就こうって思うのかなーって聞いてみたくて」 「それ、褒めてないよね?」  もう少しマシな表現はないのかと苦笑いが浮かんだけど、僕はそれほど気に留めてもいなかった。  美宇固有の軋轢を生みかねない物言いにも、だいぶ慣れてきていたのかもしれないね。 「って言われてもなぁ。期待に沿えなくて申し訳ないけど、至極普通に育ってると思うよ。大浦産婦人科医院で院長の息子として生まれて、」 「……跡取り息子、だったんだ」 「あれ、言ってなかったっけ? そう、美宇がジジイって言ってた人ね、あれが僕の父で院長なんだ。で、昔から父さんが仕事する姿とか赤ちゃんをいっぱい見てきたから、自然と自分も同じ道を行こうってなって」 「別の職業は考えなかったの?」 「うーん、そうだなぁ。医学部受験が辛かったから、その時は会社員とかちょっと考えたけど」  僕は要領がいい方ではなかったから、受験勉強というものとは相性が悪かった。  朝から晩まで勉強しても思うように模試の点数が上がらない時や、医学部は諦めたらどうかと高校の担任の先生に勧められた時は、真剣に他の道を探すくらいに精神的に参ってしまった。  でも家に帰ると、隣の病院から退院していくお母さんとベビーが、どうしたって目に入る。  あの、お母さんたちの幸せそうな顔。普通に生活していたら、あんな聖母マリアも顔負けの慈愛に満ちた表情に出くわすことなんてそうそうない。  そして、そんな母子を誇らしげに送り出す父さんの背中は、大きく頼もしく、やっぱりかっこよくて。僕なんかじゃ到底敵わないってわかってても、否が応にも憧れてしまうんだ。 「だから、父さんのような産婦人科医になりたいって想いは諦めきれなくて、なんとか必死に追い縋って、ここまで来れたって感じかな」 「――素敵な、成功体験だね」  はっとして横を向くと、台詞とは裏腹に、そう口にする美宇の目は恐ろしいほどに冷め切っていた。 「人に恵まれて、環境に恵まれて。そうすると、こんないい子ちゃんが育つのかー。なるほどねー」  棒読みに近い発音なのに、その美宇の声には妬みとか憎しみとか、そんな負の感情が満ちに満ちていて。僕はきっと、美宇の心の触れてはいけない柔らかい部分を不用意に切りつけてしまったんだと、直感した。  少し考えてみれば、わかることだった。  予期せぬこととはいえ、妊娠してしまって、それを親にも言えず誰にも相談できず、自殺まで考えていた美宇。そこまで追い込まれるのは、あんまり良好じゃない家庭環境があるからだろうというのは、想像に難くない。  なのに、ちょっと気を許してくれたって勘違いして、ペラペラ考えなしに自分の一般的には恵まれたと評される生い立ちを語って。僕は自分のその無神経さをとてつもなく恥じた。  これじゃあ、美宇を元気づけるどころの話じゃない。  心を許してくれたんだ、なんて、思い上がりも甚だしい。  悔しくて唇をぐっと噛むと、鉄の味が口内に充満した。 「美宇。話せる範囲で構わないから、僕にも君のことを教えてくれないかな?」 「なんで。先生があたしのこと聞いたって、同情して終わりでしょ?」  乾いたせせら笑いに、冷水を浴びせられたように心臓が縮みそうになる。  美宇の心の扉は、また閉じかけようとしている。今、閉じてしまったら、もう二度と、開くことはないだろう。連絡すら返してもらえないかもしれない。もしかしたら、次の診察すら現れずに、僕の知らない所で、ひっそりと中絶をしてしまうのかもしれない。  そんなことになってしまったら、美宇とそのベビーを救えなかった自分を僕は一生許せないだろう。  なら、踏ん張るしかないじゃないか。 「同情なんかで、終わらせない。家庭環境のこと、生活のこと、そして、君が望む未来。僕に教えてくれたら、それを叶える手段を僕が一緒に探すよ。だから、君のことをどうか、僕に教えて欲しい」 「あたしが今望んでるのは、子供を堕ろして元の生活に戻ること。先生が大事にしてる、赤ちゃんを殺すことだよ」  美宇はどこまでも残酷な言葉を吐いて、伸ばした僕の手を振り払おうとする。  冷淡な響きに竦みあがりそうな脳細胞を叱咤して、僕はなんとか、美宇の深奥への糸口を繋ぎ止めようとした。 「それは、手段の一つだ。それに、美宇は一つ勘違いをしてるよ」 「……は?」 「僕が大事にしてるのは、赤ちゃんじゃない。赤ちゃんとそのお母さんの『幸せ』だ」 「は? 意味わかんないんだけど」 「美宇は言ってたよね。『お腹の子は、社長のオモチャになるくらいなら、生まれてなんてこない方がいい』って。僕はね、お母さんがそう思ってしまうのなら、赤ちゃんは生まれてこない方がいいと思ってる」  美宇の瞳が驚きに見開かれた。美宇が纏っていた他人を拒絶するための殻が、ほんの少しだけ、綻びを見せた。 「は? あんた、お医者さんのくせに何言って……。子供を殺すのを勧めてんの?」  その問いは、答えるのにとても勇気が必要だった。  子供を殺すのを、勧める。  医者や人間としての倫理観を植え付けられた体が、自然と拒否反応を起こしてしまうような、そんな文言だったから。  でも、美宇の硬い殻に生じたヒビをより深く入れるために、僕は抗おうとする筋肉を無視して、間発入れずに首肯した。 「そうだ。美宇が本当に産みたくないなら、中絶すべきだ」  星野や他の産婦人科医が聞いていたら、僕は殴られて罵られるかもね。  でもこれが、僕が産婦人科医として辿り着いた答えで、信念だった。 「僕以外の医者やネット、外野が何を言おうが、誰が責めようが、僕は美宇の決断だけが唯一、正しいものだと思う。この子を産むのも、育てるのも、美宇――この子にとってのお母さん、だから。無責任な人たちの言うことに振り回されないで。美宇は美宇自身のことを信じて、愛して欲しい」  緊張で語尾が掠れた僕の言葉は、木々の間の静寂に吸い込まれていった。  美宇の薄い体が夜風にそよぐ。まだぺっこりとしたお腹には、別の命が宿っているなんて嘘みたいで、頼りなげに揺れていた。  黙してしまった美宇に、僕は迷いながらも言葉を連ねる。 「でもね、美宇。前にも言ったけど、中絶っていうのは、美宇が考えている以上に肉体的にも精神的にも、そして将来的にも辛いことなんだ。中絶を決断するなら、他に方法がないか、いろんな道を探って、もがいて、これが最善だと確信してからにするべきだ。だから、美宇のことを僕に教えて欲しい。美宇が望む未来を一緒に探すために」  ひゅっと短く息が漏れる。それが美宇の浅い呼吸音だと気付いたのは、数秒経ってからだった。 「――楽しい話じゃ、ないよ?」  青白い星明かりに照らされた美宇は、儚く透明な笑みを唇に漂わせていた。でも、やっと、その大きな瞳の焦点は、まっすぐに僕に向けられていた。 「望むところだ」 「ははっ、バカじゃないの」  美宇の喉から発せられたせせら笑いは、今度は湿り気を帯びていた。
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