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 それから美宇は、長い時間をかけて、ポツポツと僕に自分のことを教えてくれた。 「あたしの家ね、おじいちゃんの代から続く弁護士一家でさ。厳しいおじいちゃんに育てられた厳しいお父さんがいて、そのお父さんが絶対君主な家だったの。お父さんはあたしと弟に跡を継がせたくて、毎日毎日、何時間も勉強させた。サボろうとしたら殴られたり食事抜かれたり、なんてのもしょっちゅう」 「ひどいね。暴力なんて」 「そうかもね。でも、このやり方でお父さんはおじいちゃんの望み通りに育ったし、弟だってそう。けど、あたしはできなかった。あたしは、お父さんを怒らせたくなくて、泣きながら深夜まで勉強したけど、それでもせいぜい、平均ちょっと上の点数しか取れなくて。で、また怒鳴られて、今度はちゃんとしなきゃって思うのにテストは緊張して上手くいかなくて、また成績が下がって、って悪循環」 「ああ、わかるよ。僕もそうだった。プレッシャーに負けちゃうんだよね」 「そしたら中二のある日、言われたの。『お前は出来損ないだ。跡は弟に継がせるから、もう勉強しなくていい』って」  僕ははっと息を飲んだ。  跡継ぎ息子、という単語にさっき美宇が反応したのは、それが美宇にとって自分が不合格になったと印象付けた単語だからなんだ。  父は「跡継ぎ娘」ではなく「跡継ぎ息子」を選んだのだ、と。 「お父さんの期待に応えられなかったのは悲しかったけど、内心ほっともしてたの。これで人並みに友達と遊べるし、部活を始めてみるのもいいかもしれない。でもね、クラスの子と放課後出かけても、お小遣いがなかったからカラオケにも行けない。テニス部に入ろうって思ったら、ラケットやシューズを用意しなきゃいけなかった。何をするにもお金が必要なんだって気が付いて、生まれて初めて、お小遣いをねだったの」 「お小遣い、なかったんだ」 「それまで『お前はバカだから、お金を持っていたら無駄なものに使うだろう』ってお年玉すら取り上げられてたから。そしたらお父さん、何て言ったと思う?」 「何だろう。無駄遣いはするなよ、とか?」  急な質問に動転して、まるで父さんが言いそうなことを思い浮かべた僕だったが、美宇は肩を竦めた。 「残念。『お前みたいな出来損ないなんかに、やる金は一円もない』だってさ」 「っそんな、」 「だから、仲良い友達も部活も何もできなくて。あの頃は学校にいるのがしんどかったなー。でも、学校からまっすぐ家に帰っても、お父さんもお母さんも、弟にだけ話しかけてた。学校で何があったか、晩御飯は何食べたいか……。あたしはただただ、空気みたいに無視された。痛感したよ。『出来損ないのあたしは、この家にいちゃいけないんだ』って」  僕も昔から友達が少なかったから、学校は好きじゃなかった。けど、その分、家や併設する病院は安心できる場所だった。  父さんと母さんは仕事で忙しくしながらも、家にいればいっつも何か話していて、僕はリビングで勉強しながら、二人の取り留めもない会話を聞いているのが好きだった。  病院に顔を出せば、お節介な安藤さんを始めとした看護師さんや助産師さんたちに、やれ学校はどうだの、好きな女の子はできたのかだの、根掘り葉掘り聞かれて。  いつも賑やかな家や病院にいれば、僕はちっとも寂しくなんかなかった。  でも、美宇はそうじゃなかった。孤独な学校。存在を否定される家。  美宇は渇望していたんだろう。自分を求めてくれる人を。――それが、彼女を性的に消費しようとする男性だとしても。  しかも悪いことに、SNSで知り合った彼らは、美宇が見たこともないような「お小遣い」まで与えてくれた。 「そんな大金、手にしたのが初めてだったから戸惑ったよ、当然。でもね、今まで欲しいものも何も買えなかったから、とりあえずどーんと服とか化粧品とか買ってみたの。そしたらクラスの子が『可愛い』とか『そんな高いの買えるなんてすごい』って話しかけてきて、嬉しくて」 「そうだよね。それはそうだよ。褒められたら嬉しくなっちゃうよ」 「そうなの。で、その子たちにも同じもの買ってあげたら、遊びに誘われるようになって」 「……」 「調子に乗ってその子たちに奢ったりしたら、またお金が必要で、だからお小遣い稼ぎして。その繰り返し」  誰かに認められたくて、必要とされたかった美宇は、ブランド物と高級コスメで身を固めて、羽振り良く振る舞うことで自信と友達を勝ち得てしまった。  そんなもの、ちょっと削れば簡単に剥がれてしまうメッキのような自信と、友達の振りをしたハイエナだって、美宇自身も気付いていたんだろう。  でも美宇はその方法しか、自分を強くする術を知らなかった。  お金に物を言わせるような美宇の姿を悪く言うクラスメイトもいたらしいけど、攻撃的な言葉と態度で圧してきたらしい。  僕は何も言えなくなって、飲みたくもないのに冷めきったコーヒーを嚥下した。寒風に晒されて風味が飛んで、見た目は淹れたてとなんら変わらないのに、中身が空っぽな、偽物の味がした。 「そんな調子で高校生になってね、進路を決めるってなった時、やりたいことなんて浮かばなかった。けど、思ったの。もしここで、いい大学に行ったら、お父さんもお母さんもあたしのこと見直すんじゃないかって」  僕は弾かれたように顔を上げた。視線の先に浮かぶ美宇の笑顔は自嘲混じりに歪んでいた。 「バカみたいでしょ?」 「そんなっ、ことない……!」  胸が締め付けられたよ。  ここに来てもまだ、美宇はひたすらに両親からの愛を求めていたんだ。  その健気さに目頭が熱くなるのを僕は止められなかった。 「大学受験は久しぶりに頑張ったなー。金髪にしてたけど髪も黒くして、塾にも自分のお金で通って。……さすがに第一志望だった国立には落ちたけど、今の大学だって、凡才のあたし的にはまずまずだったんだよ」  美宇の素敵なところは数多くあったけど、僕が一番だと思うのは、目標のために一生懸命努力できるところだ。  根は真面目で、素直で、頑張り屋さんで。  そんな美宇だったから、報われて欲しい、幸せになって欲しいって、僕は心から願ったんだ。 「まあ、でも、お父さんもお母さんも褒めてなんかくれなかった。それどころか、勝手に大学受験なんかして東京に行くことにして! ってなじられたよ。あたしもカッとしちゃって、生活費も学費も自分で出すからいいでしょって、怒鳴って飛び出してきて、それきり。ね? 楽しい話じゃないでしょ? ……って先生!?」 「へ?」  気が付けば僕は、膝が濡れるくらいにボロボロと涙を流していた。 「ちょ、ええっ? 鼻水まで出てる。汚ったない」 「だ、だっでぇ」  反論する声すら、ズビズビと鼻声になってしまっていた。我ながら、かっこ悪すぎる。 「み、美宇が健気で、すごくて、ううっ」 「はいはい、とりあえず鼻かんで」 「が、頑張ってきたから、報われて欲しくて」 「先生、はい、チーンして」  美宇が差し出したティッシュに思いっきり鼻水を出す。美宇には、まるで子供みたいに見えただろうなぁ。うーん、情けない。 「はぁ、先生のせいで空気がぶち壊しじゃん。えーっと、だからね、産むためにバイト休んだり社長の契約切ったりしたら、お金なくなって学費どころか生活費もなくなっちゃうし、今更、親の支援も望めないから、あたしは堕ろすしかないの。あたしがその未来を望む、望まないじゃなくて、それしか選べないんだよ、先生」  苦笑いの奥には、美宇の深い絶望がやっぱり見え隠れしていて、僕はそれをどうしても否定したくて、ブンブン首を振った。 「ダメだ、ダメだよ、それじゃ! そんな消去法で自分の人生決めたら、美宇はきっと後悔する!」  だって産科医の僕は知っている。  たとえ、自分の意思で中絶したんだとしても、その後の人生に亘って「あの子が生きてきたら、今頃」と悩み苦しむ女性の姿を。  自分の意思じゃなくて、環境によって中絶を選択してしまったら、その苦痛は何倍にも膨れ上がってしまうであろうことも。  それに、 「これは僕の予想だから、間違っていたらごめんなんだけどね、」  ずずっと勢いよく鼻を啜ってから、僕は躊躇いがちに口にした。 「美宇はきっと、人からどう見えるかを気にし過ぎてしまって、美宇自身でどうしたいかを決めるのが苦手なんじゃないかなって」
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