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「――っ!」 「お父さんやお母さん。学校のクラスメイト。彼らにどう見えているかを気にして、見た目も進路も、なんでも決めてしまったんじゃない? 今、元の生活に戻りたいって言ってるのも、妊娠や出産がバレた時に周りから何か言われるのが嫌だから、そう思ってしまうんじゃない?」  美宇は何も言わなかった。  脊髄反射で怒って言い返されるかとも思ったけど、美宇にもこの時点で、思い当たる節があったのかもしれない。 「それが悪いことだなんて言わないよ。世間体を気にするのは、大事だと思う。ただね、今回は美宇自身がどうしたいかで、産むかどうかを決めて欲しいんだ。産まなかった時に、なるべく後悔しないために」 「……後悔、するのかな? でも、どうしたらいいかなんて、わかんないよ」 「美宇、自分の真の望みを知るためにはね、まずは自分がなそうとしていることがどういうことかをできる限り、詳しく知る必要があると思うんだ」 「詳しく、知る?」 「そう。だってきちんと知っていれば、いざやってみて、こんなはずじゃなかったってなるのを避けることができるからね。たとえば、」  僕は無意識に唇を舐めた。  酷で、だけど美宇は知らなきゃいけないことを、覚悟して告げるために。 「美宇のやろうとしている中絶っていう行為はね、まだ外の世界で生きられない体の赤ちゃんを無理やり産むことなんだよ。薬で陣痛を起こして、美宇は痛い思いをして赤ちゃんを産む。そして、自分が産んでしまったことで、赤ちゃんが誕生からほどなくして息絶えるのを目の当たりにすることになる。文字通り、赤ちゃんを殺すこと、なんだよ」  美宇の顔から血の気が失せた。  わかっていた。  産めない、育てられない。だから、中絶する。  美宇がその理屈を繰り返し唱えて、その行為自体がどんなものかからは、目を背けていたことを。どうしようもないから、と深く知ることを拒んでいたことを。  知ったところで、決断を覆すことなんてできないのだから、と考えないようにしていたんだろうね。  だから、あの時の僕は、そうやって知ることを避けていた美宇に、恨まれても仕方ないくらい残酷なことをしていた。でも、それが産科医である僕の責務だった。 「惨いことを言ってごめんね。でもね、これまで美宇のことを知っていって、君は、本当は素直で一生懸命な子だってわかったから、中絶をきちんと理解せずしてしまったら多分、自分を責めてしまうって思って」  美宇の瞳が動揺で揺れていた。震える白い唇からか細い声が漏れだす。 「でも……お金がないし……それに大学だって……親にもまた失望されて……」 「一度さ、その辺のことは忘れて、純粋に産みたいか産みたくないかで考えてみて欲しい。産むってなったら、金銭面も含め一緒にどうにかしよう。産まないのであれば、それも美宇の判断だって受け入れて、今度こそ手術の日程を決めよう。結論は、次の診察の時でいいから」 「そんな無茶な……」  両の手で額を覆って、美宇が呻く。  そうだろう。実際、美宇の置かれた状況じゃ、産む選択肢なんて想像もできないかもしれない。  けど、僕はただ、美宇に命と向き合って欲しかった。それこそがこの日、次の検診の前に直接美宇に会っておきたかった、本当の理由だった。  美宇にこれ以上、周囲の声に流されて不幸になって欲しくなかったから。自分の意思を尊重して、命の選択をして欲しかったから。 「大丈夫、美宇ならできる。だって、美宇の話を聞いて思ったよ。美宇は困難にめげない、すごい子なんだって」 「……すごい? あたしが? こんな失敗ばかりの、出来損ないの人生なのに?」  膝に埋めた隙間から頭を覗かせて、ぽつねんと尋ねる美宇。僕は大きく頷いた。 「うん、すごい。美宇は失敗なんかしてないよ。人より逆境が多いのに、跳ね返し続けてるんだから。そんなパワーを持った美宇が出来損ないなわけない。すごいよ、本当に。僕だったら、大学受験あたりで引きこもりになってる気がするよ」  心からの言葉だった。  一度決めたら努力し続けられる。そんな僕にはない強さを美宇に見たんだ。  だからこそ、美宇には幸せになって欲しい。その努力が報われて欲しい。  きっとこの時には既に、担当医としてより僕個人として、美宇に感情移入していたんだろうね。  僕の力説がおかしかったのか、美宇は耐えきれずに吹き出した。 「そっか。すごいのかー、あたし」  さっきまでの頭を抱えていた姿が一変、晴れやかな表情になって美宇は空を仰ぐ。大きな美宇の瞳に数え切れないほどの星が宿って、宝石みたいに輝いていた。 「うん。美宇はすごい」  つられて僕も上を向く。ぼやけた視界の中で見る星々は、尾を引く流れ星のようだった。 「――美宇、」  だからかな。こんな個人のわがままに近い願い事を口にしてしまったのは。 「経済的に厳しくなるのはわかってるけど、それでももう、社長には会わないで欲しい」  産婦人科医と患者という関係にしては、差し出がましい、出過ぎた願いだった。美宇は上を向いたまま、僕にただ訊いた。 「なんで?」 「僕は美宇にもっと、自分を愛して欲しい。自分の望みに耳を傾けて欲しい。社長は美宇を自分の欲を満たす道具としてしか見ていない。あんな奴といたら、ますます自分を肯定できなくなるよ? 美宇は、自分を大切にしてくれる人と一緒にいるべきだ」  ゆっくりと、舐めるような視線で美宇が僕を見る。心の中を推し図ろうとするような眼差しにどきりとした。 「それは、先生の本音?」  そうだね。そんな綺麗事じゃ、美宇には届かないよね。  僕の本音は、 「美宇を傷付けるあいつと、美宇が一緒にいるところを見たくない」  じいっと力強い眼が僕を見据える。どっどっどっと心臓が脈打つ音が耳元で聞こえていた。美宇に見つめられているせいだったのか、それとも担当医の立場スレスレの本音を口にしたせいなのか、僕には定かじゃなかった。  冷たい夜風が僕たちの間をすり抜けていく。地面で枯れ葉が踊る足音が妙に耳に残った。 「わかった」  美宇の返事は存外にあっさりしたもので、無意識に詰めていた息を肺から吐き出した。 「って言っても、社長からのお金がないと家賃すら払えないんだよね。また会いに来る可能性もあるから、縁切るならどっちにしろ引越しは必要だし、どーしよーかなぁ」 「あ、それについては僕に考えが。父さんに確認しないとだけど」 「え? ……まさか?」 「うん、多分、そのまさかで合ってると思う」  そう。僕が思い付いたのは、病院の空いている病室に美宇を匿うことだった。  長期間になると病院の経営を圧迫するから無理だろうけど、当面、美宇が生活を整える間なら、許してもらえるはずと踏んだんだ。  そもそも僕のわがままを美宇に吞んでもらっておいて、僕が何も手を差し伸べないっていうのは、あんまりにもだと思ったしね。 「あ、でもお金の問題が残ってるか……。生活費はすぐ用意しないとまずいよね」  段々冷静になって現実を直視すると、前途は多難だった。美宇も唇に人差し指を当てて考え込む。 「そうだね。とりあえず数ヶ月分の生活費と学費は、ブランド品売ったりすればなんとかなる、かもだけど」 「え!? いいの!? 大事なものじゃないの?」  今まで聞いた話だと、ブランド品は美宇にとって、身に付けることで強くなれる戦闘服のようなものだ。それを軽々しく売るだなんて。  僕は驚いて、まじまじと美宇を見つめた。 「いいの。もう、あたしには必要ないみたいだから」  憑き物が落ちたような顔で、美宇はさっぱりと笑った。そして、僕の眦を優しく撫でる。美宇に触れられた箇所が発火しそうなほど熱い。空だけじゃなく、目の端にもチカチカと星が瞬いているようだった。 「先生がすごいって言ってくれたから。あたしのために泣いてくれたから。それだけで、ブランド品身に付けて褒められるより、何十倍も満たされる気がする」  不思議だね。そう言って美宇はまた目を細めた。 「ちゃんと、覚悟を持って向き合ってみるよ。お腹の子をどうしたいか」  鈍感な僕は、暗がりの中でようやく気が付いた。初めて会った日よりも、美宇のメイクが薄くナチュラルになっていることに。  その優しげで幼い、だけど強い意志を持った顔は、僕が今まで出会った女の子の誰よりも可愛く魅力的だった。
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