過ち: 2024年8月某日

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 私は、とある歯科大学の動物実験棟に勤務しております。  職務内容は、研究に使用される動物の管理です。研究目的で購入、飼育された動物が実験に供試されるまで健康に、種類によっては可及的に無菌でいられるよう管理するのが私の務めでございます。  カエル、マウス、モルモット、ウサギ、イヌ……過去に一度だけ、チンパンジーの世話をしたこともありました。  この仕事に就いてから現在まで、課せられた職務に背いた事は、この度の件を除けばただの一度もございません。  扱うのは『必ず殺される』動物達でございます。必要な部位のみ最低限の苦痛で、それでも『使われた』後は『要らないところ』含め全て処分される。ヒトのために犠牲となる、極めて丁重に扱われるべき命でございます。  例えば私が管理を怠り、被験にそぐわない状態になってしまったら、またその状態が不可逆的なものであったなら。その命は、ただただ処分されてしまうのです。  現代では研究倫理がとても厳格なものとなり、しかしだからこそ、動物実験行うからには明確な、やむを得ないと表現して誤りでない明確な理由が求められます。  そうしてようやく行われる『人を救うための』研究を、私がおじゃんにしては関わる全てに申し訳がたたない。  そういった訳で、私は周囲に疎まれる程の厳格さを以て忠実に職務を遂行しておりました。  話は冒頭に戻ります。  私はこの被験済のビーグル犬を、処分したと偽り盗み出しました。  本来であれば複数回複数人の確認を以て遂行される殺処分ですが、研究員のうちの大学院生の方が「死ぬところを観たくない」と仰られたので、普通はあり得ない事ですが、「であれば私がやっておきます」と申し出ました。  そう、普通はあり得ないのです。  特に大学院生でない方の、えっと確か助教の先生でしたか。彼はとても真面目で、そういったイレギュラーな行動をとても嫌がる方でしたので、まさか彼まで実験動物の処分を放り投げるなどとは思ってもみませんでした。  ダメ元、と言ってしまっては語弊がありますが、断られては諦めざるを得ませんし、そもそも大学院生の方が「観たくない」と言い出さなければ、私も申し出たりしなかったと思います。  ともあれ、存外あっさりと私の提案が通ってしまったのです。  研究員さん方は私の職務に対する厳しさもよくご存知でしたので、それも助けになったのでしょう。  その場にいた全員が『バレたら大問題になる』事を認識しておりましたので、誰言わずとも箝口令はしかれました。  研究内容は存じません。本来であれば私は『適切に処分された』事を確認し、書類にひとつ判を押し、ご遺骸を受け取り運ぶだけの役目でございます。情報の秘匿と倫理的な観点からも、実験に関わる人物は厳格に区分けされ、他に踏み込んだりする事は決してないのです。  そしてだからこそ、私が盗み出した犬を棟外に連れ出すのは造作もありませんでした。どういった管理をしているのか、どこを『杜撰』にすれば可能であるのか、誰よりも熟知しているのは私なのですから。
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