過ち: 2024年8月某日

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 そうして盗み出した犬を、今、母の住まう妹家族宅へと運んでおります。  愛犬を亡くし、すっかり痴呆が進んでしまった母の下へ、まるで生き写しのようなそのビーグル犬を、届けようとしています。  そうなのです。  天寿を全うした母の犬と、天寿を全うできないはずのこの犬は、三毛の配分から顔立ち、その穏やかな性格まで本当に瓜二つだったのです。  それでもよくよく見てみれば違う犬だと知れるでしょう。だいたいヨボヨボの老犬が急に若返るはずもないのですから。  それでも、それでも母の喜ぶ顔が、どうしても見たかった。あるいは痴呆が進んでいるとはいえ、母は気付くかもしれません。しかし例え一瞬でも見間違えて、抱いて、撫ぜて、顔を舐められ顰め面をして。  そうそう、犬は人の口臭が好きなようです。母の犬も母の口をいつも舐めていました。よく憶えているのは、母の入れ歯がなくなった時の事。母を担当してくれていた先生に相談したところ、「ワンちゃん飼ってます?」と尋ねられ、頷くと「じゃあワンちゃんの寝床探してごらんなさい」と言われました。  やはり専門の先生はよくご存知であるようで。母の犬が寝る時に巻いているブラケットから、驚きました、入れ歯が出てきたのです。 「外で飼ってたら埋めちゃってたよ。良かったですね」  そう言った先生と、母と私。三人で大笑いしたのでございます。  うん、あの頃は………母もしっかりと、歩いていました。  今は、徘徊すら出来なくなって。  朽ちるのを待つ枯れ木のように。  そんな母の心を、僅かでも、心をこちらに戻してくれればと、幸福を感じてくれればと思ったのです。  この犯罪が親孝行になるとは思っておりません。騙す事が母にとって幸いとも思っておりません。  私が、私のために、殺されるはずだった犬を、生かすのでございます。  死ななくてはいけない命を死なさないのでございます。  独善的に、勝手な都合で。  今夜、母にこのビーグル犬を贈るのです。  もしかしたら、数瞬でも意識がはっきりするかもしれないからと、急いで兄夫婦と私の家族も呼びました。  もうとっくに夕飯の時間は過ぎていますが、家族揃って鍋をつつきたいと、妹にお願いしました。母も食べられるよう、クタクタに煮詰めた鍋を食べるのです。皆で、ひとつの鍋を囲むのです。母と同じものを、食べたいのです。  次に集まるのは、母の葬儀になるでしょう。  その前に、ただの一度で構わないのです。皆の、家族の目の前で。  虚ろな母の目に、僅かでも正常の光がさせば。  動く事を放棄したその頬に、僅かでも微笑みが戻れば。  その後は、必ず私が、この犬を生かしてしまった罪と責任を、必ず、必ず最後まで負うのですから。  生涯でただ一度の、過ちなのですから。
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