4人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
そうして盗み出した犬を、今、母の住まう妹家族宅へと運んでおります。
愛犬を亡くし、すっかり痴呆が進んでしまった母の下へ、まるで生き写しのようなそのビーグル犬を、届けようとしています。
そうなのです。
天寿を全うした母の犬と、天寿を全うできないはずのこの犬は、三毛の配分から顔立ち、その穏やかな性格まで本当に瓜二つだったのです。
それでもよくよく見てみれば違う犬だと知れるでしょう。だいたいヨボヨボの老犬が急に若返るはずもないのですから。
それでも、それでも母の喜ぶ顔が、どうしても見たかった。あるいは痴呆が進んでいるとはいえ、母は気付くかもしれません。しかし例え一瞬でも見間違えて、抱いて、撫ぜて、顔を舐められ顰め面をして。
そうそう、犬は人の口臭が好きなようです。母の犬も母の口をいつも舐めていました。よく憶えているのは、母の入れ歯がなくなった時の事。母を担当してくれていた先生に相談したところ、「ワンちゃん飼ってます?」と尋ねられ、頷くと「じゃあワンちゃんの寝床探してごらんなさい」と言われました。
やはり専門の先生はよくご存知であるようで。母の犬が寝る時に巻いているブラケットから、驚きました、入れ歯が出てきたのです。
「外で飼ってたら埋めちゃってたよ。良かったですね」
そう言った先生と、母と私。三人で大笑いしたのでございます。
うん、あの頃は………母もしっかりと、歩いていました。
今は、徘徊すら出来なくなって。
朽ちるのを待つ枯れ木のように。
そんな母の心を、僅かでも、心をこちらに戻してくれればと、幸福を感じてくれればと思ったのです。
この犯罪が親孝行になるとは思っておりません。騙す事が母にとって幸いとも思っておりません。
私が、私のために、殺されるはずだった犬を、生かすのでございます。
死ななくてはいけない命を死なさないのでございます。
独善的に、勝手な都合で。
今夜、母にこのビーグル犬を贈るのです。
もしかしたら、数瞬でも意識がはっきりするかもしれないからと、急いで兄夫婦と私の家族も呼びました。
もうとっくに夕飯の時間は過ぎていますが、家族揃って鍋をつつきたいと、妹にお願いしました。母も食べられるよう、クタクタに煮詰めた鍋を食べるのです。皆で、ひとつの鍋を囲むのです。母と同じものを、食べたいのです。
次に集まるのは、母の葬儀になるでしょう。
その前に、ただの一度で構わないのです。皆の、家族の目の前で。
虚ろな母の目に、僅かでも正常の光がさせば。
動く事を放棄したその頬に、僅かでも微笑みが戻れば。
その後は、必ず私が、この犬を生かしてしまった罪と責任を、必ず、必ず最後まで負うのですから。
生涯でただ一度の、過ちなのですから。
最初のコメントを投稿しよう!