誤り: 2023年10月某日

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「ニンカメたんオッケーっす。播種でっきま〜す」  軽い口調で、後輩君がそんな報告をあげてきた。  ニンカメたんは、供試する菌に彼が付けたあだ名である。育てて増やしたのは彼なので何も言ったりはしないが、こっちにそれで伝わると思うのは止めて欲しい。  つい先日、大学院生活ひとつめの山である中間報告を終え、いよいよ論文にするための研究に取り掛からねばならないという、割と切羽詰まった状況のはずだが。一山越えた達成感がいまだ抜けていないのか、随分と余裕がありそうにみえる。  これだから体育会系は、と、いわゆる陰キャの僕はいつもこっそり舌打ちをする。 「……カビてないよね?」 「ちょいちょーい何時の話してんすかもー。今回は大丈夫っすよ!」  遠い過去のように話をしているが、そんなに前じゃない。お陰様で時間と研究費をたっぷり削られた。  徹夜にはならない程度には実験も時間がかかる、後輩君としては、完徹でいいからなるべく一日で済ませたいらしい。  であれば必要量めいっぱい菌を増やさないと実験できないので準備にも時間をとられる。良いデータが取れなければ一からやり直し、余裕は全くない。 「菌の株番と、培養した環境、追加で耐性つけた薬。もろもろもう一回確認して、直ぐ出せるようにまとめておいて」 「大丈夫っす!もうそのまま論文にコピペできるようになってるんで!」 「うんうん……でも、たのむね?」  本当に、反りが合わないとはこの事か。最悪頭を丸めれば許されるなどと、思ってやしないだろうか。心配だ。 「たのむよ?しつこいようだけど」 「も〜心配性なんだからな〜」  いや、彼の場合は確認し過ぎるということはない。つい先だって購入した菌を増やしてる途中でカビまみれにし、二人して教授にしこたま怒られたばかりである。 「菌の状態は何回でも確認してね?」 「も〜大丈夫ですって。TMNT株なんで油断してたんすよ〜」  TMNT株。トランス・ミュータンス・ニュー・タウ株と呼ばれるこの虫歯菌は、研究用に遺伝子改良されたものである。複数の抗菌薬耐性、熱抵抗性、塩基抵抗性など、様々な環境で生き残り、感染が成立する最低菌数も引く程少ない。つまり感染力が非常に強く、また繁殖力も高いため、どうやったらこの菌を死滅させる事ができるのかというのが、昨今の虫歯研究のトレンドとなっているのだ。  この菌を打倒するのに有効な手法を確立する事は、即ち他の因子を疎外した単純明快なデータを得る事に他ならない。というと言い過ぎか、それでもかなり近しいと考えられている。  それ程に強い菌が、TMNT株。  因みにTMNTというのはかなり強引な当て字である。なんでもこの菌の開発者である酒巻教授は大変なアメコミファンであり、界隈では畏敬の念をもって『サワキちゃん』と呼ばれている。  疎い者からすれば意味不明なジョークであるが、研究者というものは何かそういうことをしたがるものだ。  とにかく、対虫歯菌を想定した研究において、このやたらめったらに生存力の高い菌株はとても有用であり、故に高価であるのだ。  とはいえ所詮は菌である。燃やせば死ぬし冷やせば死ぬ、乾いても圧しても紫外線でも薬液をかけても死ぬ。あくまでヒトの組織を為害しない程度の汎ゆる攻撃に耐性があるというだけであり、だから後輩君は試験管をカビさせた。 「どんだけこするんすか〜」 「シャーレ裏返した?」 「しましたよ〜」 「クリーンベンチクリーンにした?」 「してますって〜」 「他の科と同じとこ入れてないよね?」 「混ざる訳ないじゃないすか〜」 「水洗った?」 「それは、シャレですか?マジですか?」 「マジの方」 「ちゃんとフィルター通してますよ」 「よろしい。では検討だ」  そうして診療時間外にふたり、わざわざ増やした菌共をベルトコンベア式に死滅させていく。  日はとっぷりふけこんで、校内は静けさを増々に増す。警備員さんの巡回まであと2時間。クリーンベンチの前に座するは、眼の死に果てた男と男。何も起こらぬはずもなく。 「……さーせん。実験群、ディシュずれてます」 「………………どっから?」 「…………………………けっこう」  なぜか、よりによって一番時間のかかるところを、なぜか皆、必ずトチるのだ。 「あはっーはっはっはっはっは!」 「ひゃーっはあああ!あばばばばばばば!」  世の中は、なぜかそのように出来ているのだ。 「マーフィー!マーフィー助けてー!」 「すいません!すいません!あと誰すかマーフィーって!」 「猫をバタートーストに塗ると宙に浮く法則だよっ!」 「なんすかそれー!めっちゃイイじゃないすかー!」 「適当に返事するなコノっ!」  後日やり直し。いくらかは菌を育て直すところからである。 「くぁwせdrftgyふじこlp」  もう廃棄のシャーレを全て放り投げてやりたい。さもなくば目の前のこいつの口の中にねじ込んでやりたい。 「オマエをTMNT株のキャリアにしてやろうか!」 「テロすよ!日本を入れ歯大国にするつもりすか!」  TMNT株の感染力はアホほど高い。これは端的にいえば動物実験のためにデザインされた性質である。TMNT株を用いればわざわざ虫歯菌の苗床として歯を掘る必要すらない。エサに混ぜれば大体の動物が虫歯になるし、ラット一匹に感染させて無菌室に放り込めば数日で同室内のラット全てに伝播する。  まあコントロールの及ばない虫歯など実験には使えないので、野放途に感染させたりなどは決してしないが、同じ深さに穴を掘れば短時間でほぼ同じ形の虫歯にできるのでやはり重宝する性質である。 「大丈夫大丈夫!君が大皿に直接箸突っ込んだりしなければ誰にも感染さないから!」  故に、無闇に感染拡大しないようにも一応対策されている。  TMNT株の感染経路はほぼ接触感染のみである。細菌として当たり前のサイズであるため、目の細かい立体マスクを着用すれば飛沫感染も起こらない。  感染者の唾液が口の中に入らない限りは、他者に感染させる可能性はほぼ0%である。  そして、ほぼ、というのは継代していくうちに形質転換でもして更に凶悪になってしまう可能性もあるという事。 「だから大丈夫!君が生涯マスク外さなけりゃ大丈夫だから!この廃棄の菌を全部飲み込めコノヤロー!」 「キス出来ねぇだろ!こちとら来年結婚式だバカ野郎!パワハラで訴えるぞ万年助教!」 「あー!あー!そんな事いうんだったら君だって助教の枠なんかないんだからな!僕が出世しないと平のまんまだぞ!」 「おーおー博士号とったら即座に辞めたるわい!誰がお礼奉公なんかするか!」  説明の必要はないかもしれないが一応、うちの大学だと助教は係長くらい。お礼奉公は『博士号とらせてやったんだから1年くらいは薄給でこき使われようね』っていうパワハラである。 「誓いのキスなら顔にラップでも巻いてしろや!」 「うおおあーテメェ絶対ぇ式に呼ばねぇ!」  なんて、やいやい言ってるが、まあ流石にバイオテロを起こすつもりはない。罵り合いも深夜のテンション故である。言ってるだけだから訴えないで欲しい。  そうして今日も、まもなく明日になっていく。
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