水曜日の子供

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 毎週水曜日になると、うちの父は目に見えて落ち着かなくなる。夏目さんが遊びにくるからだ。  インタホンが鳴り、父が立ち上がった。ふだんは自分の携帯電話が鳴ってもわたしに取らせるくせに。いそいそと玄関に駆けていく父の背中を眺めながら、わたしは自分で注いだココアを口に含んだ。 「蘭子ちゃん、こんにちは」  リビングに入ってきた夏目さんが、大きな体を屈めてわたしの頭を撫でた。 「セットが崩れちゃう」 「あ、ごめんね」  あとから入ってきた父が咎めるような視線を送ってきたが、気づいていないふりをする。 「悪いけど、蘭子ちゃん、またうちのと遊んでやってくれるかな」  夏目さんが玄関に下がり、再びもどってきたときには、少年を連れていた。夏目さんの子供の蓮くんだ。わたしも愛想よしとはいえないが、こちらはもっと不機嫌な顔をしている。さすがによその子を叱るわけにもいかず、父はキッチンに姿を消した。蓮くんに対しては、むしろよそよそしかった。気が引けるのだろう。 「こっちにきて。将棋を教えてあげる」 「蘭子ちゃんは将棋ができるの?」  夏目さんが驚いた顔をつくる。この父親も、わたしには必要以上に気を遣う。なんだか疲れてしまって、わたしは傲岸に頷いた。 「ぼくもできるよ」 「あら、そうなの」 「蓮は将棋クラブに入ってるんだ」 「それじゃ、わたしより巧いかもね。勝負しましょ」  わたしは蓮くんを伴って階段を上がった。途中でそっと振り返ると、夏目さんと父が顔を近づけてなにごとか囁きあっていた。  これだからね。ため息を呑み込む。水曜日は嫌い。  わたしの父は小説を書いている。わたしが生まれる前は都会に住んでいたらしいが、もともとおっとりした性格は、著書が売れて有名になるにつれ喧噪に馴染むことができなくなり、この田舎町に引っ込むことになった。  とはいえ、この環境はわたしも気に入っている。学校の子たちは馬鹿ばかりだけど、悪い子じゃないし、静かで、空気もきれいだ。 「あ、やだ」 「王手」  蓮くんの指が軽やかな音を立てて飛車を動かし、わたしは天を仰いだ。 「本当につよかったんだ。誘ったのは間違いだったみたいね」  わたしに圧勝して、蓮くんも多少機嫌をなおしたらしい。へへへと笑って、足を崩す。たしかわたしよりひとつ下だから、4年生か。単純なのもしかたない。 「それにしても、あなたもたいへんよね。毎週学校を休んでるの?」  夏目さんは企業コンサルタントをやっている。蓮くんも東京の有名大学に付属する小学校にかよっているはずだった。 「家庭教師を雇ってるから」  ストローでコーラを飲みながら、蓮くんが答える。 「蘭子ちゃんも休んでるじゃない」 「わたしは頭がいいもの」  いい返してやる。蓮くんはおとなのように首をすぼめた。亡くなったお母さんはハーフだったそうで、美少年というまやかしじみた形容詞がぴったりくる彼には、そんなしぐさが似あっている。なんだかんだといいつつも、毎週まめに彼の相手をしている理由にもなっていた。アイドルに夢中のクラスメイトたちを冷ややかに見ているが、わたしもあまり変わらないかもしれない。そう思うと、すこし憂鬱になった。 「もう一度やろうよ」 「いい。何度やってもおなじよ。それより、外に行きましょ。すこしは運動しなきゃ」  わたしは蓮くんを促して立ち上がった。子供部屋を出て、リビングに顔を出す。 「庭で遊んでくる」 「わかった。遠くに行かないでね」  父の声は弾んでいた。居心地の悪さから逃げるように、わたしたちは家を出た。  キッチンから持ってきたビスケットを齧りながら、ブランコを揺らす。庭には小づくりではあるが丈夫なブランコと滑り台が設置されていて、もうすこし小さな頃はよく遊んだ。自分専用の公園なんて、都会にはありえない。蓮くんはつまらなさそうな顔をしていたが、ふだんとはちがう遊び場をそれなりに楽しんでいるようだった。 「ねえ、ちょっと待って」 「早く。蘭子ちゃん」  滑り台に上る蓮くんのあとを追う。てっぺんの柵から身を乗り出して、ふたりで景色を眺めた。 「すごくきれいだね」  眼下には豊かな草原が広がっている。つよい風が蓮くんの色素の薄い髪を乱していた。 「蓮くんもきれいよ」 「なんだよ、それ」  急に男っぽい口調になる。照れているのだ。なんだか可愛い。わたしは妙に冷酷な気分になった。 「ねえ、蓮くん」 「なに」 「キスしたことある?」 「キス?」  ただでさえ甲高い声が上擦った。顔を真っ赤にして俯く。 「ないよ、そんなの」 「どういうものかは知ってるでしょ?」 「そりゃ……」 「そうよね。うちのパパと蓮くんのパパがいつもしてるもんね」  紅潮していた蓮くんの顔から熱が引いた。 「見たことなかった?」 「そんなの……うそだよ。パパはそんなことしない」 「どうしてそう思うの?」 「だって、そういうのは男のひとと女のひとがするんだよ」 「じゃあ、わたしとあなたがしても問題はないわけね」  おどけた調子でいったが、蓮くんはごまかされなかった。強張った顔を向けてくる。 「蘭子ちゃんは見たことがあるの?」 「なにを?」 「だから、パパたちが……」 「あるよ」  先月のわたしのバースデイ・パーティ。夏目さんや父にプレゼントをもらい、祝ってもらって、わたしは興奮していた。夜になってもなかなか寝つけないくらい。思えば、あのときまで、夏目さんのことを単なる父の友達だと信じていたのだ。  ジュースを飲もうと一階に下りて、見てはいけないものを見てしまった。思い出したくもない。 「ねえ、蓮くん。興味あるでしょ。わたしとしようよ。してあげる」  蓮くんの細い腕をつかむ。それほどつよい力ではなかったはずだが、蓮くんは怯えて、身を捩った。  手を振りほどかれ、あっと思ったときには、蓮くんの体は柵の向こうに消えていた。  子供部屋では、将棋の盤がそのままになっていた。蓮くんの飛車が、わたしの王に迫っている。それを見ていると、涙が溢れてきた。  ドアが開いて、父が入ってきた。わたしが尋ねる前にいった。 「怪我はたいしたことない。足首を捻挫したけど、あとは擦り傷ぐらいだって」  全身から力が抜けた。父はうなだれるわたしの前に座った。わたしを叱ることもせず、ただ黙って悲しそうに目を伏せていた。 「蘭子ちゃん」  ため息を吐くようにいった。 「ぼくは、夏目さんがここにこなくなってもいいと思ってるんだ。もしきみが嫌なら……」 「わたしがやったと思ってるの?」  絶望がわたしの声を掠れさせた。涙でぶざまに汚れた顔を持ち上げて、わたしは叫んだ。 「わたしが滑り台から蓮くんを突き落としたと思ってるのね。そうなんでしょ!」 「ちがうよ、蘭子ちゃん、ぼくは……」 「ひどいわ!」  わたしは立ち上がった。父が制止するのも聞かずに、部屋を飛び出した。  ブランコに座って、わたしは考えていた。父のこと、夏目さんのこと、蓮くんのこと。でも意味はない。わたしの考えることなど、なんの意味をももたないのだ。なぜなら、わたしはまだ子供で、馬鹿だから。  本当に馬鹿だわ。考えれば考えるほど、自分が嫌になる。間違っているのは父ではない。わたしだ。蓮くんが滑り台から落ちたのはわたしの責任だった。わたしがくだらない悪戯をしたから。  金属音がして、我に返った。夏目さんがブランコの鎖を握っていた。ふだんどおりのやさしい笑顔が、わたしを見下ろしていた。 「蓮くんは?」 「帰ってきてるよ。きみのパパが面倒を見てくれてる」 「わたし……」 「蓮は自分の不注意で落ちたといってる。ぼくはあの子の話を信じるよ」  子供だと思っていた蓮くんが庇ってくれたのだと知り、わたしは羞恥に唇を噛んだ。けっきょく、一番子供なのはわたしだった。 「ぼくらはもうここにはこないよ」  わたしのためにブランコをゆるやかに動かしながら、夏目さんが静かにいう。 「きみのお父さんとも会わないから」 「……わたしのせい?」 「ちがうよ。絶対にそんなことはない」  夏目さんはブランコから手を離し、わたしの目の前にしゃがみこんだ。まっすぐにわたしを見つめていった。 「最初から間違っていたんだ。気づくのが遅くて、きみや蓮を傷つけてしまった。悪かったよ。ゆるしてくれ」 「……ゆるさない」 「蘭子ちゃん」 「ひどいわ。パパも夏目さんも蓮くんも、わたしのことを責めないんだもの」  泣きじゃくるわたしの頭を、夏目さんはずっと撫でてくれた。 「空気が悪い」  車から降りたとたん、わたしは顔をしかめた。 「最低のところね。よくこんなところに住めるもんだわ」  わたしの帽子の乱れをなおして、父が苦笑いする。 「本当にいいの、蘭子ちゃん」 「何度も聞かないでよ。嬉しいくせに。顔が弛んでるわよ」  父が恥ずかしそうにはにかむ。わたしの口からいうのもなんだが、かわいらしい表情だった。わたしは、夏目さんに父を取られることに恐怖と嫉妬をおぼえていたのかもしれない。  門のブザーを押すよりも先にドアが開いて、夏目さんが出てきた。足に包帯を巻いた蓮くんを腕に抱いている。蓮くんは憮然とした顔をしていて、わたしはつい噴き出してしまった。 「いらっしゃい、蘭子ちゃん。きてくれて嬉しいよ」  夏目さんがわたしの帽子の頭に手を置こうとして、慌てて引っ込める。長身の夏目さんを見上げて、いってやった。 「やっぱり、都会は性にあわないわ」 「蘭子ちゃん……」  父の言葉を遮り、つづけた。 「来週からは、またうちにきてもらいますからね」 おわり。
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