さんくん

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確かに、間違いなくあれは、さんくんの声だった。 電話。さんくんからの電話。私の胸には言葉に尽くしがたい熱いものが深々と突き刺さる。 五十年の時を越えて届けたい思いが、さんくんにはあったのだろう。それが何だったのかがわからぬまま佐藤舞子の無知な正義によって絶ち切られてしまった。それが悔しくてもどかしい。だが佐藤舞子を責めるつもりはない。彼女を責めるのは違う。それは断じて違う。 原稿用紙の上で、ペンを握る私の右手は微動だにせず止まったままだ。 さんくんからの電話が気になって、ペンを握る手がもう動けない。こうなってしまえばもう駄目だった。私は佐藤舞子への謝り文句をあれこれ考えながら、本棚の裏に隠してある脱出用の革靴を両手にぶら下げて窓の外へ飛び出した。書斎は一階だ。難なく脱出に成功した。 高い日差しを白髪頭に浴びながら真っ直ぐ歩き、忘れもしないさんくんの実家を目指した。 私の記憶が確かであれば、さんくんの実家の主は随分と前に代替わりしており、現在はさんくんの兄夫婦一家が住んでいるはずだ。さんくんとさんくんの兄はかなり歳が離れている。さんくんが十一歳で行方知れずとなったとき、さんくんの兄はすでに二十代も半ばを過ぎていた。だからさんくんはさんくんの兄とは兄弟喧嘩などしたこともなく、そして私もまたさんくんの兄とは一緒に遊んだ記憶もない。 さんくんの実家は、私の自宅兼仕事場から徒歩で行ける範囲にある。さんくんの兄は七十代も半ばを越えているのだから、今はもう勤めには出ていないはずだ。平日の昼過ぎではあるが、さんくんの兄はきっと在宅している。
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