雨上がりまでの帰り道

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 ──ぽたり。  滴の落ちる、微かな音がした。  私がゆっくりと瞼を開くと、見慣れた机の配置が視界に映る。 (ここは…………?)  突っ伏していた机から身体を起こした。思いっきり伸びをすると、つい大きな欠伸が出てしまう。  私は潤んだ目尻を指先で拭い、辺りを見渡した。  周囲には私以外、誰の姿もなかった。どうやら静かな放課後の教室でいつの間にか眠ってしまい、私一人だけ取り残されてしまったらしい。 (本当はもう少し、寝ていたかったんだけどな……)    目覚めたばかりの気怠さのせいか、頭がぼうっとする。  窓際の自分の席からは、窓ガラスにパラパラと打ち付ける雨粒の様子がよく見えた。透明なガラスの表面に、小さな滴が次々と跡を残していく。   (あ……、やばい。傘、持ってきてないや)  雨が降るなんて、今朝のテレビで言っていただろうか。  まあここ最近天気予報なんて、気に留めることもなかったのだけれど。 (しかたがない。走りますか……)  土砂降りに変わる気配はなさそうだが、雨はとうぶん止みそうにない。  このままいつまでも、学校で雨宿りするわけにもいかないだろう。私は机の横にさげていた鞄を掴み、立ち上がった。  早足で廊下を通り過ぎ、一階までの階段を降りていく。  校舎内は静か過ぎるほどしんっとしていた。  湿り気のある空気が肌に纏わり付く。外から聞こえる雨の音が、まるで世界の全てを囲っているかのように、私の鼓膜に強く響いていた。  昇降口前に辿り着く。不思議なことに、ここまで誰ともすれ違わなかった。いったい私はどのくらいの間、眠ってしまっていたのだろうか。 (なんだか、檻みたい)  四角い校舎の出入口から、切り取られた雨の風景が覗く。走ると決意したはずなのに、ここに来て踏み出そうとする一歩が躊躇われた。頻りに聞こえる雨音が、私の心を捕らえる。  帰らなければいけないのに。  まだ、帰りたくないような。 「美香ちゃん」  突然、私の名を呼ぶ声に、驚いて息が詰まる。 「…………おねえ……、ちゃん?」  昇降口を降りたすぐのところに、大きな傘を片手に持った、一人の少女が佇んでいた。 「ど、うして……?」 「美香ちゃんを迎えに来たの」  ニコリと微笑んだ姉の香穂が、空いている方の手を私に差し出した。 「家(うち)に帰ろう」  帰ることに逡巡していた私の気持ちに、姉の一言がストンと落ちてきて。 「うん」  躊躇していたはずの一歩は、容易く前へ踏み出された。  私は慌ただしく出した下履きにさっさと足を入れ、差し出された手を取る。 「慌てなくていいのに」、と、姉が笑う姿に、たまらなく嬉しさが込み上げてきた。  私は力を込めて姉の手を握り返す。細くしなやかな姉の手の形が、私の手のひらにはっきりと伝わってきた。 「ごめんね。傘、一本しか持って来れなくて」  校舎の出入口をくぐり抜け、雨の世界へ入るちょうど手前で、姉はすでにネームが外れていた傘を、片手で器用に開く。ぱっと勢いよく開いた傘は、水色地に細い白色の線が入ったストライプ模様。姉が好んで持っていたいつもの傘だった。昔、お揃いで買ってもらった私の傘は、桃色地と白の同じようなストライプ柄だったのだけれど、おっちょこちょいで迂闊な私は、買ってもらって一ヶ月でどこかに置き忘れていた。  そんな私と違い、姉はこの傘をずっと大切に使っていたので、姉がこうしてこの傘を空に向かって構える姿を見ると、私はどこか誇らしくなる。 「えへへ~っ」 「なに? どうしたの?」 「んー? べつに~?」  私は傘をさした姉の隣に飛び込むようにお邪魔すると、ぎゅっと腕を組んだ。姉は嫌な顔ひとつせず、「あんまり揺らすと、美香ちゃんのほうが濡れちゃうよ」と、私のことばかり気に掛けてくれる。  私は自分が雨に濡れることなんてどうでもよくて。  姉にひっつきたくてたまらなかった。  歩きづらいだろうことも分かっていたけれど、姉は文句も言わずに、クスクスと穏やかに笑っていた。 「……あ、見て、美香ちゃん。あそこの駄菓子屋さんで、小さい頃によく二人でアイスを食べたでしょ。覚えてる?」 「覚えてるよ。それで……、私がなかなか当たりの棒を引き当てられなくて」 「そうそう。それで美香ちゃん、絶対当てるってきかなくて、アイスの食べ過ぎでお腹壊したこと、あったけ……」 「だって、お姉ちゃんは当たったのに、私は当たらないんだもん。だから、あの時はちょっと意地になったっていうか……」  家に着くまでの帰り道。私と姉はいくつもの懐かしい世間話をした。先程の駄菓子屋のこと、下校途中でよく見かけた白い猫のこと、テストで悪い点をとった私が、お母さんに叱られたくなくて、公園で時間を潰そうとしたところに姉も付き合ってくれたこと。 「……こうして話してると、私いっつもお姉ちゃんに、迷惑ばかりかけてた気がする」 「そうだっけ? 美香ちゃんを見てるのが楽しかったことしか覚えてないけど」  子供の頃の私の失態を、また何か思い出したのか、姉は控えめながらいつまでも面白そうに肩を揺らしていた。  姉は優しい。いつも私のワガママを、何も言わずに受け入れてくれる。  今日だって帰るのを渋って途方に暮れかけていた私を、こうして迎えに来てくれた。    こんな水滴がポツポツと滴る、雨の中を。 「さあ、家に着いたわ」  姉の言葉に、私はドキリと鼓動が打った。傘の影からちらりと見上げると、そこには見知った私の家。  私は隣に佇む姉の横顔を視界に入れる。私の視線に気付いたのか、目を合わせた姉がにっこりと微笑んだ。 「お姉ちゃん、私……、帰りたくないよ」  まだこのままでいたい。  まだこのまま、降りしきる雨の中に、二人きりで。 「駄目よ。このまま居続けたら風邪をひくわ。お母さんやお父さんも心配する」 「でも、お姉ちゃん……」   「美香」  姉の真っ直ぐな声が鼓膜を通る。 「泣かないで」  そう言われて初めて気が付いた。  私の頬を大粒の涙が伝っていることに。  気付いてしまったらもう止められなくて。  止めどなく溢れてくる涙を、私はしゃくり上げながら必死に手で拭う。 「お姉ちゃん、私……」 「うん」 「お姉ちゃんに謝りたいことがいっぱいあるの」  迷惑かけてごめんなさい。ワガママばかり言ってごめんなさい。心許ない言葉も、傷付ける言葉もたくさん言った。  お姉ちゃんはいつも私を気に掛けてくれたのに、私はお姉ちゃんに甘えてばかりで、優しくしてあげられなかった。  思い返せば後悔ばかりが募る。  今だって、ほら。  泣きじゃくる私に、お姉ちゃんは何も言わずに傘を傾けてくれる。  ざぁざぁと降り続ける雨。  ずっとこの雨の中にいたというのに、姉の肩まで伸びた長い髪や、長いスカートのワンピースはどこもかしこも濡れていない。  ずぶ濡れなのは私だけ。  私だけがまだ、この雨の中に捕らえられていた。 「美香ちゃん、私ね。こうやって思い返していったら、幸せだったことしかなかった。貴方といて、お母さんとお父さんの娘に生まれて、私はただそれだけで幸せだったのよ」  目尻に押し付けていた私の片方の手を、姉がやんわりと掴んだ。柔らかいけど温度がない姉の手が、私に傘の柄をそっと握らせる。 「美香ちゃん、今は無理でも、いつかは笑ってね。私、貴方の笑った顔がこの世界で一番大好きなの」  触れた傘の柄の感触に、私が戸惑っていると、どこからか突然、強い風が吹いた。私は掴んでいた傘が飛ばされたりしないようにと、咄嗟に身を縮こまらせ、傘をしっかりと掴んで支える。  気付けば目の前にあったはずの姉の姿が消えていた。代わりに残ったのは、水色と白色の線が鮮やかに映えた大きな傘がひとつだけ。  私はみっともなく、ズズズッと鼻を啜る。  いつの間にか雨の音は止んでいた。  私は傘をさしたまま頭上を見上げる。 「わぁ……、綺麗」  切れた厚い雲の隙間から、眩い光が射し込んでいた。キラキラと輝く光の道が、空から降り注いでいる。  まだ僅かに滲む私の視界には、まぶしいほどに美しい雨上がりの空だった。  私は思わず目を細めながら、しばらくその風景を見続けた後、くるりと方向転換する。  持っていた傘を丁寧にたたむと、自宅の門を軽やかな足取りでくぐり抜け、玄関へ続くドアノブへと手を掛けた。 「ただいま」  私は大きな声で、待っていた家族へ帰宅を告げた。
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