夕立

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夕立  夏のこの時期になると子どものときの不思議な体験を思い出す。私の住んでいた町はかつて炭鉱だった。昔は栄えていたらしいが過疎化でバスが廃線になり、住民はどんどん減っていた。小学生の頃にはその地域の子供はKと私の二人だけだった。  もう何十年も前の話なのに、Kのことは今でも鮮明に思い出せる。年は私よりも1つか2つ下で、痩せて青白い男の子だった。おとなしくて無口だったので親しい友だちもいなかったように思う。家が近いから一緒に帰っていただけで、そういう事情でもなければ仲良くなるようなタイプではなかった。  下校の時間になると町内放送が聞こえてくる。セミの声がうるさい暑い日だった。私とKはいつものように黙々と家路を目指して歩いていた。生まれつきなのか、Kは歩くときに片方の足を少し引きずるような癖があって、そのせいで歩くのが遅い。私はなるべくKと同じ速さになるように歩くが、それでもたまに差が生まれるので、そういうときには振り返ってKが追いつくのを待って、それからまた歩いた。  ねっとりとした湿気を含んだ空気が少し変わったのに気がついた。あれだけうるさかったセミの声が止み、晴れていた空に厚い雲がかかってあたりが薄暗くなった。それから突然雨が降り出した。その日は一日じゅう晴れの予報だったので私もKも傘を持っていなかった。 「おい、走れ」  という私の合図とともに私とKは走った。  全力で走るとKとはぐれてしまうのに途中で気がついた。引き返してKの手を掴んで走る。その間も夕立は私達に降り注いでいた。数十メートル先に例の廃線になったバスのバス停が見えてたので、「そこまで走るぞ、頑張れ」と私はKに声をかけた。  ようやくバス停の軒下に入ったときには私もKもすっかり濡れてしまっていた。着ていた体操服は濡れてぴったりと背中につき、気持ち悪い。Kも似たようなもので、濡れてしまった前髪を手でかきわけながら外を見ていた。雨脚は強く、遠くで雷の音も聞こえてきた。肩で息をしていたKは落ち着くと「止むかな」と不安げに私に聞いてきた。私は返事をしなかった。  Kも私もハンカチなんて持っていなかったので濡れたまま夕立が止むのを待った。気温は高かったが、少しずつ熱が奪われ、寒くなってきた。すぐに止むと思っていた夕立は思いのほか長く続いた。  それに初めに気がついたのは私のほうだった。林に面した坂道を、こちらに向かってくる赤い傘があった。その間も雨が滝のように降っていて、Kは不安げな表情のまま押し黙っている。その赤い傘は遠くからでも目立った。老朽化したアスファルトの上を雨粒が叩きつけられている。傘をさしていたのは女の人だった。赤っぽい着物を着て、顔には狐の面をつけていた。  私が釘付けになっているのにKも気がついたようだった。そのころには女の人はバス停のすぐ前まで来ていた。赤い着物に白い足袋を履き、草で編んだような草履を履いたその女の人は無言のまま私達の雨宿りしているバス停の軒先に入った。  初めは近所に住む誰かだと思ったが、あとで思い返してみてもほっそりとして背の高いその女の人に心当たりはなかった。第一、近所の人だったら何か私達に声をかけてくるはずだ。誰もが顔見知りだった。  私とKは混乱し、押し黙って成り行きを伺った。女の人が何か話しかけてくるかもしれない。あるいはこちらから何か話してもよかったのかもしれないが、私もKもうつむいていて、まさか自分たちから声をかけるなんて発想がなかった。  永遠に止まないのではないかと思われるほど夕立の時間は長く感じた。私は状況の異様さに混乱し、いたたまれなくなっていた。雨は変わらない勢いで降り続いていたが、構わずに走って帰ろうかとKに提案しようとしたそのとき、先に女の人が動き出した。折りたたんでいたあの真っ赤な傘をまた開き、来たときと同じようにゆっくりと歩き出したのだ。私はそれでずいぶんとほっとしたのを覚えている。私とKだけがこのバス停に残るのであれば、あとしばらく夕立が続いてもリラックスして待っていられる。しかし、Kは思いもかけないことを言い出した。 「ねえ、一緒につれてってくれるって」  その言葉に驚いてKを見ると、何か異様な表情を浮かべていた。喜んでいるような、興奮しているような、あるいは恍惚とさえ言ってもいいような表情を浮かべていた。私はKがそのような表情を浮かべるのを初めて見た。  着物の女の人は、私達に向かって何も言っていなかったはずだ。しかしKは確信を持っているようだった。女の人は数歩先で傘をさしたままこちらを見ている。Kもまた私の方を見ている。雨はその間も激しく降り続いている。はっきりしない私の態度に焦れたのか、Kはバス停の軒先からさっと女の人のさす傘の下に入っていった。  女の人は歓迎するようにKの肩に手を置いており、Kは嬉しそうにこちらをみている。  どれだけ二人に見つめられていたか、わからない。やっとのことで絞り出したのは「いやだ」という短い言葉だった。するとKは少しだけ寂しそうな顔をして、それから女の人を見上げ、二人で坂道を登って行った。「行っちゃだめだ」と私はKに向かって言いたかったが、どういうわけだか声が出なかった。  Kと女の人が歩いて去っていったあと、ほどなくして夕立は嘘のようにあがった。空は再び光がさし、濡れたアスファルトが太陽の光で輝いている。セミも元気を取り戻し、林の間から音を立てている。私はハッとしてKたちが歩いて行った道を走って追ったが、もちろん二人の後ろ姿をみることはできなかった。それからどうやって家に帰ったのか覚えていない。Kを探したのかもしれないし、怖くなってそのまま帰ったのかもしれない。たぶんKの家に寄って家の人に事の顛末を報告するべきだっただろう。しかし、私の覚えている限り、それもしていない。  私はただただ恐ろしかった。その日はろくに夕食もとらずにすぐに寝室に籠もった。Kはいったいどうなったのだろう。明日からどうするのだろうと。次の日の朝、Kは現れなかった。しかし、驚いたことに誰もそれについて話題にしなかった。子どもが一人行方不明になっているにもかかわらず、なんの話題にも上がらないので混乱した。  帰りにKの家に寄ってみた。実はすでにKは家に帰っていて、今日はたまたま風邪で休みになったと家の人が連絡したのかもしれない。しかし、Kの家があるはずだったその場所は空地になっていた。怖くなって親にKのことを聞いてみるが、そんな子はいないと言う。そのときの私はKが引っ越したのかもしれないと自分を納得させようとしたが、昨日まで一緒に登下校していたのに、今日家がなくなっているのはありえない。  それからいろいろな人にKのことを覚えているか聞いてみたが、誰もKを覚えていなかった。長い年月がたち、そのうちにKが本当に実在していたか自分でも怪しくなってきた。私は街で就職して両親は元炭鉱の町にある家を引き払ったのでもうあの町に行くことはないだろう。  あの着物の女について行ったらどうなっただろうと今でも考える。私や私の家族もいなかったことにされるのだろうか。それとも、もともとKなどという少年はおらず、女も含めてすべてが私の妄想だったのだろうか。夕立のなか、電車に乗っているとき、車窓から一度だけ赤い傘をさした着物の女を見た。一瞬のことだったので傘の下に子供がいたかは覚えていない。私は降りる駅でないにもかかわらず、電車が停車したらその駅で降りて女がいた踏切までずぶ濡れになりながら走った。  しかし女の姿はそこにはなかったし、Kにも会うことができなかった。 了
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