幸福破壊兵器

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 角を曲がると、初夏の夜風に化粧のにおいがのる。私の嫌いなにおい。なぜ人間本来の香りを楽しまないの?  露出の高い服を着た女たちが、三メートルほどの間隔で通りに立つ。  私もならぶ。初めてならぶ。  男どもは私から目をそらし、手で空気を払いながら素通りする。  でも私がプラカードを掲げると足を止めた。 『二重(ふたえ)鷲鼻(わしばな)の人なら千円で寝ます』  すぐに五十がらみの男から声を掛けられた。鼻が低く丸いので断った。 「お前、客を選べる立場かよ」  勘違いしないで。私が男を選んでるのよ。崇高な目的を果たすために。  団子鼻は嘔吐の仕草を残して去っていく。男の無礼な態度が、派遣先での苦痛を揺り起した。  正社員たちは、化粧の派手なキャバ嬢みたいな女には笑顔で話すくせに、二十三年間、処女を守り通した私には仏頂面だった。鼻をつまむ奴までいた。  でも、(さとし)さんだけは違った。だからお礼にメールを送った。   私が派遣切りにあった理由は、そのメールらしい。正社員と派遣が親しくするとダメなの? たった一カ月で解雇だなんて理不尽過ぎる。くそ、ふざけんな。  気づくと、髪を力一杯かきむしっていた。立てた爪の心地良さに、心の波が平らになる。ネオンの光を受け、赤や黄色に輝きながら舞うフケが美しい。  三十分ほどで希望通りの男が来た。鷲鼻でクッキリとした二重まぶただ。 「本当に千円なのか」  私はにっこり笑って頷く。  その後も街角に立ち続け、数人のリピーターができた。二重で鷲鼻ばかりだ。  皆、私が念入りなシャワーを終えるまでベッドに入らなかった。不本意だが、将来のためだ。我慢して浴びた。  派遣切りにあってから一年。智さんの奥さんが赤ちゃんを産んだ。  私は大切なお土産を腕に抱え、智さんの住むマンションを訪ねた。届けたい真心があるから。届けたい幸せがあるから。  マンションのエントランスで智さんを待つ。エレベーターの階数表示板が七階で止まり、降りてくる。智さんが乗っているに違いない。  扉が開くと予想通り、智さんがいた。奥さんに抱かれた赤ちゃんに笑いかけている。 「おひさしぶりです」  私の声に、智さん一家が立ち止まる。 「これ、プレゼント」  駆け寄り、紙袋を智さんの胸に押し付けた。 「ベビー服を買ったの。この子とおそろいよ」  私は腕の中で(よだれ)を垂らす赤ちゃんを差し出した。 「ほら、智さんにそっくりでしょ」  私の血を強く継いでいたらどうしよう。  産むまでは悩んでいた。でも、二重で鷲鼻の小さな顔を見た瞬間に確信した。私は幸せになれる、と 「私から智さんへの大切なお土産よ。智さんを想って産んだ子なの。」  ちらりと視線を走らせた奥さんの頬が引きつる。 「あなた、どういうこと。まさか浮気……」 「違う。この女がおかしいだけだ」   二人の言い草に腹が立ったので詰め寄った。至近距離で大声を浴びせる。 「私はおかしくない。それに浮気じゃないわ。本気よ。この子は私の真心なの」 「ちょっとあなた、臭いから離れて」 「やだ奥さん。臭いだなんて失礼な。人間本来の香りの良さがわからないの? ねえ智さん。こんな非常識な女はやめて、私とやり直しましょう」 「非常識なのはお前だ。不潔で、俺と交際してるだなんて嘘のメールを全社員に流して」 「私以上に智さんを愛している女はいない。どうしてこの真実に気づかないの」 「あなた、どうなってるのよ」  奥さんは涙を流し、金切り声を上げる。母親の剣幕に驚いたのか、赤ん坊も泣く。 「こんなヒステリックな奥さんとは別れて、私と結婚したほうがいい。もう子供だっているのよ」  私は智さんと奥さんの間に体を捻じ込んだ。今日のために一か月、お風呂に入らないで仕上げた体は、私好みの豊かな香りがする。  素敵でしょ。智さんもかいで。  私は智さんに密着する。顔を寄せて囁いた。 「キスして」  ひっ、と短く喉を鳴らし智さんが私を押した。  本当にやるつもり?  このために産んだ子だ。一瞬でも躊躇(ちゅうちょ)した自分が恥ずかしい。  私は硬い床の上に勢いよく倒れた。わざと。赤ちゃんが良い角度で床に衝突するように調節を加えて。頭の割れる音は、西瓜を落とした音に似ていた。  智さん。あなたはこれから人殺しとして裁かれる。  でも安心して。あなたへの愛は変わらないわ。  私、毎日塀にもたれて待ってるから。刑務所を出たら、私と暮らして幸せになろ。
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