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猫族の舌
■神谷芳雄はまだ大学を出たばかりの会社員であった。しかも父親が重役を勤めている商事会社の調査課員で、これというきまった仕事もないのんきな身の上であったから、飲み覚えた酒の味、その酒を運んでくれる美しい人の魅力が忘れがたくて、つい足しげくその家へ、京橋に近いとある裏通りの、アフロディテというカフェへ通よいつづけたのも、決して無理ではなかった。
しかし、もし彼がもっと別のカフェを選ぶか、そこのウエートレスと恋をするほども足しげく通よわなかったなら、あのような身の毛もよだつ恐ろしい運命にもてあそばれなくてすんだに違いない。彼がこの物語の主人公、怪物人間豹を知ったのは、実にカフェ・アフロディテにおいてであったのだから。
ある冬の、ことさら寒い夜ふけのことであった。神谷はまたしてもカフェ・アフロディテの片隅のテーブルに腰をすえて、ウィスキーをチビチビとなめながら、ウエートレスの弘子とさし向かいで、もう三、四時間ほども、意味もない会話を取りかわしていた。
「きょうは変だね、まだ十一時だのに、僕のほかには一人もお客さんがいないじゃないか」
ふだんから、なんとなく陰気な、客の少ない、その代りにはゆっくりと落ちつきのあるカフェであったが、今晩は殊に、まるで空き家にでも坐っている感じで、薄暗い電燈といい、シーンと静まり返った様子といい、なんだかゾッと怖くなるほどであった。
「魔日っていうんでしょう、きっと。そとは寒いでしょうね。でも、邪魔がなくって、この方がいいわね」
弘子は恰好のよい唇をニッとひらいて、神谷の好きな八重歯を見せて甘えるように笑った。
すると、ちょうどその時、入口のボーイが客を迎える声がして、コツコツと靴の音をさせながら、一人の男がはいってきて、一ばん隅っこのシュロの鉢植えの蔭のボックスへ、人眼をさけるように腰をおろした。
神谷はその男が歩いているあいだに、風采や容貌を見てとることができたが、彼はまっ黒な背広を着た、ひどく痩せ型の、足の長い男で、その顔はトルコ人みたいにドス黒く、頬が痩せて鼻が高く、びっくりするほど大きな、何かの動物を連想させるような両眼が、普通の人よりはずっと鼻柱に近くせまって、ギラギラと光っていた。年配は三十歳ほどに見えた。
神谷はそれからまたしばらく、弘子と楽しい密語をささやきかわしたが、そのあいだも、シュロの葉蔭の客が、なんとなく気になって仕方がなかった。彼はこんな変てこな感じのする人間を、まだ見たことがなかった。
弘子も同じ心とみえ、話しながら、絶えずその方をジロジロと見ていたが、とうとう我慢ができなくなったように、ささやき声で訴えた。
「いやだわ、あの人、さいぜんからあたしの顔ばかり見ているのよ。ほら、あの葉蔭から、大きな眼で、あたしの方をじっと見つめているのよ。気味がわるいわ」
なにげなくその方を見ると、なるほど、シュロの葉の隙間に、蛍火のように異様に光る眼が、猫が鼠を狙う感じで、射るように弘子に注がれている。
「あれ初めての人?」
「ええ、そうよ。あんな人見たことないわ」
「失敬なやつ」
神谷は聞こえよがしに舌打ちして、相手の眼をにらみつけたが、すると、先方でもそれに気づいて、鋭い視線を神谷に向けた。
「なにくそ、まけるもんか」
と彼は酔っていたので、にらみっくらでもする気になって、じっと眼をすえて、しばらくにらみ合っていると、不思議なことには、相手の眼中の蛍火がだんだん強く輝きだし、しまいには眼の前一杯に、えたいのしれぬ妖光がひらめき渡って、クラクラと眼まいを感じないではいられなかった。そしてなんともいえぬ悪寒が首筋をゾーッと這いまわった。
「あんなやつ、気にするのよそうよ。君も向こうを見ないでいる方がいい、あいつどうかしているんだよ。あたり前の人間じゃないよ」
「ええ、じゃあ、もう見ないわ」
しかし、やがて、無関心を装っているわけにはいかないことが起こった。
「ねえ、弘ちゃん、あたし困っちゃったわ」
怪しい客の相手をしていたウエートレスが、まっ赤に酔った顔をして、二人のテーブルに近づくと、声を落として言った。
「あの人がねえ、どうしてもあんたに来てほしいっていうのよ」
「いやよ、そんな失礼な。あたしは、芳っちゃんのお相手してるんじゃありませんか」
「ええ、そりゃわかってるわ。だから番が違うからってお断りしたんだけれど、聞かないのよ、酔っぱらっちゃって、乱暴しかねないのよ。ちょっとでいいから、顔を出してくんない?」
それを聞いていると、神谷はムカムカと癇癪が起こってきた。
「だめだって言いたまえ。人の話している相手を横取りするやつがあるか。ぐずぐず言ったら僕が行ってやるよ」
すると、ウエートレスは一度帰って行ったが、すぐ引っ返してきて、
「じゃあ、そのお客さんに会いたいっていうのよ。こちらへ押しかけそうにするのを、やっととめてきたの、弘ちゃん後生だから……」
と、泣きそうに言う。
「よし、じゃあ僕が行ってやる」
神谷は立ち上がって、「あらいけませんわ」と二人の女がとりすがるのを、つきのけるようにして、ツカツカと、シュロの蔭かげのボックスへはいっていった。
「僕に用事があるそうですが」
と、酔っているものだから、少しばかりウルサがたに詰めよった。
男は、グラスも、ウィスキーの瓶も、テーブルの上に倒してしまって、恐ろしい眼をすえて、皿のビーフステーキを、めちゃめちゃに切りきざんでいたが、神谷の声を聞くと、ヒョイと顔を上げてニヤニヤと笑った。
「ええ、用事があるんです。用事というよりはお願いなんです。僕、あの子が好きになっちゃったんです。会わせていただけませんか」
案外おとなしく言われたので返事に困っていると、
「会わせてください。でないと、僕、自制力を失ってしまうかもしれません。僕を怒らしちゃいけないのです。ごらんなさい。僕の口を、僕の口を」
見ると、彼は歯ぎしりを噛かんでいるのだ。奥歯をギリギリいわせて憤怒をかみ殺しているのだ。そして、じっとこちらを見つめている眼が、大きく大きくひらいて、また異様な燐光が燃えはじめた。
「だって君、それは無理じゃないか。あの子は僕の馴染みなんだぜ。それを横取りしようなんて」
神谷は虚勢を張った。
「いけませんか。いけませんか」
男はせき込んで尋ねる。
「ええ、困りますね」
「ああ、僕を救ってください。僕は自制力を失いそうです。もし自制力を失ったら……」
彼は歯を気味わるく鳴らしながら、何を思ったのか、拳骨を作っていきなりテーブルをなぐりつけた。幾度も幾度もなぐりつけているうちに、指の関節が破れて、血が流れはじめた。そのテーブルにしたたった血の上を、無残にもさらになぐりつづける。
彼は彼自身の心と戦っているのだ。歯を食いしばったり、指を傷つけたりして、何かしら兇暴な衝動を抑えつけようとしているのだ。だが、それにもかかわらず、ともすれば、こみ上げてくるけだもののような怒りが、彼の全身をワナワナと震わせ、両手の五本の指が何かに掴つかみかかるように、醜くキューッと曲がってくるのだ。そして、眼は一そう青く燃えたち、歯はガチガチと鳴る。
神谷はそれを見ていると、我慢にも虚勢が張っていられなくなった。酔いもさめきって、心の底まで冷えわたるような、なんともえたいの知れぬ恐怖に、震えあがった。
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