プロローグ

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プロローグ

 ――その恋は、決して許される恋では無かった。それは市川自身も、重々承知していた。ずっとその胸の奥に、そっと秘めておくだけのはずだった。誰にも気付かれてはいけなかったし、誰にも口にしていなかった。  ただ、遠くから時々見つめているだけで良かった。そんな風に、自分に嘘を吐いていた…。その想い人は、市川が営業部長として働いている会社の部下である。そして、お互いに既婚者であった。それ故に、決して許されぬふしだらな愛だったのだ。自分の家庭も、彼女の家庭と幸せな生活も、壊す気など毛頭なかった。  時々その愛が成就した時の事を妄想して、…いや、もっと正確に言えば男女の営みを妄想して興奮し、自分自身を慰め、心が満たされればそれだけで良かった。神に誓っても、不倫しようなどと思った事は、一度も無かった。  市川が密かに想いを寄せるその女性は、清楚で何時でも笑顔を絶やさぬ明るい女性(ひと)だ。何時から彼女に惹かれ、密かに想いを寄せていたのか…。そんな事は、当の昔に忘れてしまった。そして、今更どうでも良い話なのだ。  それでも初めて会ったその瞬間に、身体中に電撃の様な強い衝撃が走った事だけは良く覚えている。そう、つまりは一目惚れという事だ。その感情に気付いてしまった時、市川は自分自身を疑った。市川は五十台前半、想い人は三十台後半である。  日に日に大きくなっていくその危険な慕情を、幾度となく打ち消し、その度に押し殺そうと試みた。だが、どうしても…どう足掻いても、何処からともなく湧き上がってくるその恋心を、完全に消し去る事は出来なかった…。  妻の優佳(ゆうか)とは、知人の紹介で知り合い、結婚して既に二十五年になる。二人の子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築いて来た。妻も二人の子供たちも、大切な家族であり、心から愛していた。  きっとそれは、彼女の方も同じ想いであったはずだ。夫や二人の子供の事を、幸せそうに同僚たちと話しているのを、よく目にした。彼女がいつも笑顔でいられるのは、そんな愛する家族の存在があるからなのは、誰にでも容易に想像出来ただろう。
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