プロローグ

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「お、俺は…おれは……何という事を…」 後悔の念に全身を支配されたせいだろう。市川は無意識に言葉を洩らしていた。  自分に背を向け、ベッドに腰掛けながら頭を抱える男の姿…。梨恵はその背中を黙って見つめていた。そして、その心情は嫌でも察しがついた。その背徳感、罪悪感、嫌悪感は、当然梨恵の心情とも一致する。  梨恵にも当然ながら愛する夫と、二人の子供がいるのだ。後悔という念が全くない訳ではない。これが既婚者同士の不貞行為だという事は、誰よりも痛感している。それ故に、市川の心情を責める事など出来はしない。これはお互いに背負ってしまった、重い重い十字架なのだ。  だけど…それでも…。自分たちはつい先ほどまで、忘却の果てに野獣の如く、深く激しく求め合い、愛し合ったばかりではないか…。梨恵の胸の中で、市川への小さな不信感が芽生え始めた。  ―その刹那、梨恵の頭の中に「人間の声」とは呼べない何かが聞こえた。聞こえたと言うより、頭の中で響いた。そんな不思議な感覚だった。そしてその声が途絶えたその瞬間、市川への愛情が、憎悪へとすり変わった。  それは、自分の感覚とはまるで違う異質な物だ。今までの人生で、感じた事の無い激しい憎悪。まるで積年の恨みか、怨念の様だ。自分の中で芽生えた恐ろしい感情…。梨恵は、自分自身に恐怖を感じた。不貞行為は、お互いの自己責任である。そんな事は百も承知だ。  それなのに、それなのに…。激しい憎悪が自分の意に反して、心の奥底から次々と溢れ出して止まらない。感情が…感情が、まるでコントロール出来ない。どうしても、どうしても、抑える事が出来ない…。  梨恵は、自分が自分で無くなっていくのを理解出来ずに、必死に藻掻いていた。ああ、もう駄目だ…。意識が遠のいていく。自分の意識も身体も、何者かに支配されてしまった。自分の意志とは無関係に、身体が勝手に動いてしまう…。  そんな気配にも気付かず、市川は未だに頭を抱え、自責の念に駆られたままだ。(憎い…憎い!憎い!!)梨恵自身の意識は、最早そこには無かった。深く激しい憎悪のままに、梨恵の両腕は市川の首を絞め付けていた……。
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