第6章 生死のはざま

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第6章 生死のはざま

広大で右も左も分からぬ樹海。  樹海に入ると、たとえコンパスを持っていても方向感覚が狂うという。 そんな場所に、社会経験もなく、無論、アウトドア経験なども皆無の徳男は取り残された。  追いかけようにも、ワリエルから受けた傷が激しく痛む上に、歯が何本か折れて、その激痛と、初めて見た自分の大量の血にすっかり腰が抜けて、まるで芋虫の如く小屋の中でうずくまっていた。 「うう、痛い……。痛いよう。なんで、何でオレがこんな目に……」  昨日の今まで、自分の好きなフィギュアに囲まれた子ども部屋で、ぬくぬくと、何の不安も飢餓も心配も、そして恐れさえなく過ごしてきたのに。 「ちくしょう、ジジイめ! くそう、あのワリなんとかってヤツめ! 殺してやる、必ず、殺してやるっ……!」  折れた歯は、とっくに吐き出していた。  血は、そのうち止まった。  いつの間にか、真っ暗だ。  電灯のスイッチはあるが、立ち上がる事ができない。 「……ママ。オレ、このまま死ぬのかな。死ぬ前に、もう一度初音ミクちゃんのフィギュアを抱きしめて、チュッチュしたかったな」  そう言いつつ、唇を尖らせていると、脳味噌の中で初音ミクの歌が響き始めた。 「ああ、いい歌だなあ。やっぱオレ、ミクちゃん大好き……」  うとうとし始めて、気が付くと眠っていた。  ぐおー、ぐおー  痛さを、眠っている時だけは忘れる事ができる。  しかし、それもいつまでも続くわけではない。 「ん……。なんだ、明るくなってきたぞ。いたたた」  一体どれだけの時間、寝ていたのだろう。  全身の痛みと共に、目が覚めた。  ぐぅううう 「は、腹が減った」  ただ殴られ蹴られただけなのに、腹は減る。 「た、立て、立つんだ、じょおおおお!」  腕に力を入れて、腹を押しのけつつ、ようやく四つん這いになることができた。 「はあはあ、はあはあ。いててて。まだ痛むわ。てか、肋骨折れてるよな」  何とか、片膝を立てて、ようやく立ち上がる事ができた。 「立った、立ったわ。クララが、立った……」  長いニート生活のせいで、過去から現在まで、あらゆるアニメを見尽くしているのが徳男の長所と言えば長所、取柄と言えば取柄なのだ。 「くそ、冷蔵庫、冷蔵庫!」  丸太小屋の中には、最低限、人間が生存できそうなアイテムは揃っていた。  片隅に、家庭用冷蔵庫が一台、ウイーンという音を立てながら稼働していた。 「メシ、メシ寄越せ!」  思い切って、徳男は冷蔵庫を開けた。 「は、はああああああ? 何だこれ? 野菜とか肉とかしかねーじゃんか!」  冷蔵庫には、みずみずしい野菜と牛、豚、鶏などのパック詰めの肉、それに卵や牛乳などが入っていた。  また、米櫃には米が十分な量蓄えてあった。  通常の感覚なら。多少なりとも、自立した生活を送ってきた人間なら、飢える事はないであろう量だった。 「ふざけんなあああああああああ!」  小屋の中には、小さいながらもコンロがあったし、包丁、まな板もあった。  ところが。 「ハンバーガー出せよ! ピザはどこだ! カレー持ってこい!」  徳男は今まで、料理をしたことがなかった。  食事は常に、母澄子が子ども部屋の前に置いていってくれた。 「無用の長物」という成語は、この時の徳男にとっての冷蔵庫の存在以外に当てはまる言葉はなかったであろう。  徳男の眼の色が変わった。 「どこか、どこかにカップ麺はないのか!」  空腹は、痛みに勝るようだ。  出血が止まったのを幸いに、徳男は小屋の中を手当たり次第に探し回った。 「ち、畜生……。何もないじゃねーか!」  正確に言うと、何でもあるのだが、「そのまま又はお湯を入れるだけで食べれるものが何もない」というのが正解である。  徳男は、小一時間も小屋の中を探しをして、最終的に絶望して膝から崩れ落ち、呆然自失として涙をひたすら流した。 「あ、あああ。ママ、ママのご飯が、食べたい……」  34歳の男の自我が、完全に崩壊した瞬間だった。
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