第1章 その②

1/1
前へ
/38ページ
次へ

第1章 その②

 東京都日野市在住、安納徳男(33)通称「安徳」は、両親と妹典子(27)の4人暮らしだ。  郊外に一戸建てを建てた父博司は苦労人だった。東北地方から出てきて、同じ東北からやってきていた母と職場で出会って結婚。高卒ながらも中小企業の部長にまで出世し、絵にかいたような高度成長期を支えた団塊世代の人間だった。  それがようやく今年、それも今月末、今日31日付けで65歳の定年を迎えたのだ。 夫婦二人は、ささやかながら退職祝いをしていた。 明日から豊かな老後を過ごすはずが。 二人で、悠々自適の生活を送るはずが。 言うまでもない。ひとつの大きな、そして容易に解決し得ぬ悶絶するような障害があった。 その巨大な障害、完全なるお荷物、容易に処分できぬ生きた廃棄物、粗大ゴミ。 それが、長男の徳男の存在なのだ。 「……邪魔だ。本当に邪魔だ、あの役立たず穀潰しが……。わしらの年金、あのバカには一文たりとも使わんぞ!」  博司は声を張り上げた。 「ほんっと、そうよね。あのクソ兄貴のせいで、私まで白い眼で見られるの。マジで耐えらんないわ」  いつの間にか、リビングのドアが開いて若い女が立っていた。 「ノリちゃん。いつの間に帰ってたの」 「さっき、ただいまって言ったじゃん。お父さんもお母さんも、険悪なムードだったからさ。聞こえてなかったんじゃないの」  博司が、典子の方に目をやった。 「……典子。お前は結婚を控えた大事な身だ。明日から、彼氏の家に行きなさい」  父親は厳しい目をして、短く告げた。  典子は、目を丸くして母親に視線をやった。  母は、思わず目をそらした。 「の、のりちゃん。お父さんたちは明日からちょっと旅行に出掛けて来るから、ね」  その一言で、典子は何かを察知したかのように、軽く数度うなずいた。 「分かったわ。彼には、後で連絡しとく。いつ帰ってくればいいの?」 「3日後だな」    ゴクリ。  典子は、なんとなく察知した。 「み、3日後ね。じゃ、私お風呂に入るから」  そう言って、典子はバスルームに消えて行った。  食べ終えた食器を、母澄子が無言で片付けていた。  すると。  ドンドンドン、ドンドンドン  天井から響く気味の悪い足音。 「この足音を聞くのも、今夜が最後なのね」 「ああ、清々するな」 「……お父さん、やめてあげることはできないの」  母が手を止めた。父はスマホをいじる手を止めた。何か地図を検索していたらしい。 「やめる? 何を? 今さら?」 「徳ちゃんが、あまりにもかわ……」    ガン    博司は、思わず机を平手で叩いた。 「今さら何を言う。無能なあいつはこのまま、この家で引き籠りニートを続け、わしらの年金を食いつぶすつもりだ。いずれわしらは先に死ぬ。そうなれば、あいつの将来はどうだ?」 「どうだと言われても……」 「その害が、典子に及ぶだろう。そんな負の遺産を、娘に押し付ける訳にはいかん。廃棄物を生産した、責任をわしらは取らねばならん」 「廃棄物……そんな言い方はやめてください!」  ドンドンドン、ドンドンドンドン、ドンドンドンドン、ドンドンドン  再び、天井から響く低音が、二人の口論を休止させた。 「徳ちゃんの食器を片付けてきますね」  母は顔を曇らせながら2階へ上がって行った。  この光景が、既に10年続いている。  もう、この生活を継続するのは、限界なのだ。 「……母さんには悪いが、わしが取れる唯一かつ最終手段は、もうこうするしかないのだ」  博司は、ぼそりと呟いた。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加