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香鳳温泉郷のさらに奥地に佇む緑風園。本館は客室や大浴場、食事処が設けられている。廊下を進んだ先の別館は、全室離れになっており、露天風呂が備わっていた。こちらの別館は、中学生以下の利用不可。家族プランも存在するが、ほとんどが大人を対象としている。
そんな緑風園の特徴は、全室から眺められる日本庭園。忙しない日常から離れ、四季折々の庭園に癒される空間は、香峰温泉郷の中でも上位人気宿だ。
2人が宿泊するのは別館。夕食と朝食会場は本館だ。従業員は最低限の案内のみで、基本的に部屋に入らない。布団はチェックアウト時までそのまま。このような過度な接客がないのもまた、プライベート時間を有意義に過ごすことができ、魅力の1つだった。
宿泊部屋“群青”の鍵を開け、足を踏み入れた晴翔は、目を丸くさせ一目散に窓へ向かう。ボストンバッグを畳に放り投げるように置いた。
8畳部屋の窓はまるで絵画のよう。鮮やかな緑の木々が見え、手入れされた枯山水が目に入る。窓と外の間には縁側が設けられており、より風を感じなから時間を過ごせる仕様だ。
黒のパンツに青の半袖カットソー姿の晴翔が映らぬほど、窓ガラスは磨かれている。手垢1つない。窓枠が無ければ、境目に気付かず追突してしまいそうだ。
8畳部屋にはテーブルと座椅子、冷蔵庫などが設けられていた。そして、隣の10畳部屋は布団がすでに敷かれている。こちらの部屋もまた、窓から開放的な夏の自然を感じられた。
廊下は水回りの動線。トイレや洗面所、そして1番奥に脱衣所と露天風呂が備わっている。
「……おかしいよ。どうしてこんな宿が取れたの!?」
幸一は座椅子に腰掛け、窓から外を眺めた。
「奇跡的に別館はここだけ空いてたんだ。夏休みも終わって、お盆も終わった。紅葉はまだ早い。猛暑でめちゃくちゃ暑いし、ど平日。だから埋まらなかったんじゃね?」
今日は8月29日木曜日。連休が終了した世間は、仕事や学校が始まり憂鬱な時を過ごしているかも分からない。晴翔は、そんな方々に申し訳なく思えるほどの感動と興奮を抱いていた。
「わぁ……こっちも綺麗……」
10畳部屋の眺めは、木や灯篭の配置が変わり、別の場所のよう。どちらも飽きない空間だ。
晴翔は幸一がいる8畳部屋に戻り、窓を開け縁側へ進んだ。ブラウンのリクライニングチェアが2脚。円形のサイドテーブルがそれぞれ設けられている。
「すごいなぁ。ここでお酒飲んだらより美味しいだろうね」
リクライニングチェアに腰掛けながら呟く晴翔。そして、幸一も腰掛けまだ明るい外を眺めた。
「朝のコーヒーもいいね! 朝はもっと空気が澄んでるんだろうな。こんな宿があるなんて知らなかったな。ねぇ、結構したでしょう? 料金高いでしょう?」
興奮気味に話す晴翔と異なり、幸一は険しい表情をしていた。
「コウくん?」
「俺に話せない。日記にも書けない。そんな何かがハルトの中にある気がする。空元気で、無理矢理気を張って……。正直、今のハルトも、無理矢理感動してる風を装っているんじゃねぇかって」
晴翔から相槌の言葉が出ず、沈黙が流れた。
「俺も上手く言えねぇけど。過剰な笑顔って気がするんだよな。その理由がなんだか分かんねぇけどさ、環境少し変えたら、ハルトの“何か”も変わるのかなって思って」
力なく笑った晴翔は、視線落とした。足を交差させつま先を見つめる。白と黒のボーダー柄の靴下は、先端生地がやや薄くなっていた。
「別に言いたくねぇならそれでいいんだけど。でもハルトが無理し続けちまったら、night diaryが成り立たなくなるだろ。客と商店街の連中に愛されてんだからさ」
薄手の黒いジャケットの袖を捲り上げた幸一。刺青を覗かせながらリクライニングチェアに寝転がり、そっと目を閉じた。
風の音や小鳥の囀り、遠くでは蝉の鳴き声が耳に入る。心地よいBGMで、寝てしまいそうだった。
「仕分けしようと開いた日記に、ダメージを受けてしまったんだよ。でも内容が非現実的だから、コウくんに話せなかったんだ」
幸一は目を開き、顔を左に向けた。俯いたままの晴翔は力なく笑っている。
「冗談半分で“持っていかれないように”なんて言っているけれど、持っていかれた気がしたんだ……」
この言葉を皮切りに、晴翔は自身の身に降り注いだ出来事を話し始めた。
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