第1話 雨やどり

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 時刻は深夜0時過ぎ。  湯盛市(ゆもりし)陽毬町(ひまりちょう)に降り注ぐ雨は、バケツの水をひっくり返したようだった。災害級の大雨といっても過言ではない。 「すまねぇ! ちと、雨宿りさしてくんねぇか?」  ノンアルコールカクテルバー“night diary”に響いた低音の大声量。  声の主は、夜道を走ってきたのか息を切らしていた。黒髪から滴る雫が、紺のスーツを色濃くさせている。青いスーツケースの上に、同色のボストンバッグを乗せていた。撥水加工が施されているはずのアウトドアメーカーだが、豪雨に太刀打ちできていない。  日堂晴翔(ひどうはると)は、すぐさまバーカウンターの背後に体を向けしゃがみ込む。棚の下から取り出したタオル数枚を手に、急いで男の元へ向かった。 「どうぞ使ってください。新品ですので、遠慮なく……」 「あー、すまねぇな。ありがとな」  男は頭にタオルを被り、ごしごしと拭き始めた。一方晴翔は、タオルをスーツケースに当て、撫でるように雨粒を拭う。  一刻も早くボストンバッグの中身を確認したいところだが、勝手に開けるわけにはいかない。  大事な書類はないだろうか。  磁気カード類はないだろうか。  ノートパソコンやタブレットがないだろうか。  そんなもどかしさを感じてしまう。  店の立地は、喜々楽町(ききらくちょう)という繁華街まで、徒歩5分。そちらにはキャバクラやホストクラブ、ソープやラブホテルがあり、路地を挟めば大手ビジネスホテルも存在する。  僅か5分で別世界。店周辺は、住宅地で比較的静かな場所。昔ながらの商店街や、広々とした公園が存在する。しかし、出張で夜を楽しむ男性諸君が、こちらに迷い込むこともゼロではない。  男は晴翔より少し低め。170センチ程だ。鼻下と顎にお洒落な髭。乱暴な口調だが、どこか目元は優しい。  そう見えてしまうのは小皺のせいだろう――と、晴翔は思った。目じりの皺で同世代の40代、50代だと推測する。  何気ないスーツでも色気が漂っており、さらには雨に濡れているため、“水も滴るいい男”という表現がぴったりだ。 「すまねぇな。余計な仕事増やしちまって」 「いいえ、大丈夫ですよ。お客様はお仕事でいらしたのですか?」 「いや。いろいろあってな。とりあえず、ネットカフェに泊まるつもりで、コンビニ寄ろうとフラフラしてたら、すげぇ降ってきてな」  風が強まったのか、窓を激しく叩きつける音が2人の耳に入った。 「看板入れないと……」  晴翔は台風のような雨と風の中、表に立て掛けていた看板を撤去。体感は10秒に満たない程度だ。4本足のスタンド看板は無事飛ばされずに済んだが、体は無事とは言えぬ程びしょ濡れになってしまった。 「いやぁ、参りましたね。これはもう店仕舞いしなければいけません。あ、大きめのバスタオルがございますので、お持ちしますね」  告げると同時に、小走りでバーカウンターの隣のドアを開ける。  この場所は休憩室。テーブルやソファ、事務用品の収納棚を設置していた。雑巾と分けて置かれていたのは、黒の大判バスタオルだ。しかしこれは枕にしたり、肌寒い時に掛ける用。ブランケットの役割も担っている。  ブランケットを手に再び店内へ戻った晴翔。革靴がペチャペチャと床を鳴らしている。重力で落ちる水分が、足元目掛けて滴り落ちていた。全身酷い濡れようで着心地が非常に悪いが、何よりもお客様最優先だと思い、男の元へ向かう。 「よろしければ、タオルではなくこちらのほうをお使いください。私物ですので、使用感がございますが………………」  晴翔から続きの言葉が出てこない。  ――何故だ。何故、手渡したはずのバスタオルが肩にある?    上半身を包み込むように、ふわりと乗っているバスタオル。それはマントのようであり、てるてる坊主のような姿。 「透けそうだぞ。あんま見られたくねぇだろ」  晴翔は我に返った。  白いシャツに黒のパンツ、そして腰にエプロンを付けるカジュアルなスタイルで、ベストは着用していない。白いシャツの中はインナーシャツ。しかし先程の雨で、乳首が透けてしまいそうな状況だと、ようやく気づいた。男は胸元を覆ってくれたのだ。  親切な男は手を伸ばし、バスタオルの両端を掴むと、晴翔の髪の毛を拭き始めた。店内BGMのスローテンポのジャズに合わせ、ゆっくりと雫が拭き取られていく。 「お気遣い、ありがとうございます……」  されるがまま。何をどうすればいいのか分からず、今言える精一杯の言葉を伝えた晴翔。やはり状況が読み込めない。  ――今の私は、濡れた大型犬か? 「ありがとうってのはこっちの台詞だ。なぁ雨が止むまで、ここに居てもいいか? もちろん、酒はオーダーする。アンタおすすめの酒が飲みたい気分だ」 「……えっと……この店は……ノンアルコールカクテルのバーでして……アルコール類は一切、置いていないんです……申し訳ございません」 「おぅ、そうきたか。ここ最近、ノンアルがなんか主流だもんな。需要あるもんな。なら、コンビニ行って酒買って、俺が勝手にアルコール入りカクテル作るってのは……」 「持ち込みは禁止となっております。それに……また雨に濡れますよ?」  確かに、と男は呟いた。 「意味ねぇよな。せっかくアンタが入れてくれて、丁寧に荷物も拭いてくれたのによ。悪ぃ。俺、問題発言してるよな。雨に濡れて頭おかしくなっちまったかもな。すまん」 「いいえ。謝らないでください。通常のバーと勘違いされる方はいらっしゃいますし、表の看板にのみ記しておりますので、分かりにくいのは事実です。もう店仕舞いするので、こちらで着替えなさってかまいませんよ。お召し物が濡れていらっしゃいますし。今、ブラインドを閉めますね」  晴翔は各窓のブラインドを閉め、窓側の照明を落とした。店半分の壁側だけ照らされたライト。ドア付近に立つ男へ、ぼんやりとした明るさが向けられている。 「私は別室におりますので、遠慮なく着替えなさってください」 「いや、このままでいい」 「ですが、風邪を引いてしまいますよ? ハンガーがございますので、せめて上着だけでも……」  しかし男は無表情で首を振った。 「迷惑かけちまう」 「迷惑とは、思っていないですよ? お互い濡れている状況ですし、床はモップで拭きますので何も問題など……」    男はスーツのジャケットを脱ぎ、ボストンバッグの上に掛けた。  晴翔は、その一連の流れがスローモーションで映った。僅かに残った髪の毛の雨粒を散らす(さま)も、一粒一粒目視できた気がしたのだ。 「お、お客様……」  ワイシャツと半袖のインナーシャツ。少々濡れて張り付いたその腕には、黒や赤の色味が確認できた。巻きつく緑の龍と、咲き誇る薔薇。そして花びらが舞っている。お洒落なタトゥーでなく、警戒心を抱いてしまう刺青だ。 「俺は華紋会(かもんかい)の人間だ。足を洗って、地元に戻ってきた。元ヤクザとはいえ、いい気分じゃねぇだろ。雨が止んだらさっさと出る。店には迷惑かけねぇから、少しだけ雨宿りさせてくれ」 「しょ、承知致しました。あの、私は2階に一旦行くので、お着替えなさるのであればここをご利用ください」  肩のバスタオルを(なび)かせ、逃げるように階段を上がった晴翔。心臓がけたたましいが、明確な理由が分からない。  元ヤクザ。  元暴力団。  元反社会的勢力。  本人が告げているならば、恐らく事実。しかし晴翔は恐怖を抱いていなかったのだ。  玄関を開け、素早く入ると呼吸を整え立ち尽くしてしまう。  胸がまだドキドキと音を立てている中、晴翔の脳裏に蘇ったのは、ジャケットを脱ぐスローモーション。    画面の向こう。芸能の世界では、男から見てもカッコいい男は存在する。歌手、俳優、アイドル。一般庶民から見れば憧れや羨ましさがあり、ときめきのような感情が芽生えることを晴翔は理解していた。所謂“推し”を好きになる感情。  ――恋愛とは異なる。  晴翔は、男に恋心を抱いたことが一度もない。お付き合いした相手は皆女性だ。  ――恋愛とは異なる。  胸を押さえながら何度も心の中で呟いた。
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