1.遥香

2/6
前へ
/10ページ
次へ
(帰ったら、すぐシャワーを浴びて、それから夕飯の準備を……)  ぼんやりと信号が青になるのを待ちながら、遥香は帰宅してからの段取りを考える。  今日の夕飯は、厚揚げともやしをたっぷりと入れたカレーを作る予定だ。  お肉も入れるけれど、それは少ない量にして、厚揚げでボリュームをしっかりと増やすのだ。    今日はプチトマトが安売りしていたので、それもカレーの具材に仲間入りさせてしまおうと遥香は考えていた。  最後に加えて軽く火を通すようにすれば、爽やかな酸味と旨みが、きっと心地良いだろう。    厚揚げともやしをメインの具材にしたカレーは、遥香がつくる食事の中で、定番と言えるメニューだった。  今日のプチトマトのように、その時々で安売りしている食材や、旬の野菜を加えれば、アレンジも楽しめて、飽きることがない。  なるべく節約をしたくて考えた料理だったが、遥香も、弟の結人(ゆいと)も、このカレーをなかなか気に入っていた。  長く煮込む必要もないから、短時間でパパッと作れるのもありがたい。  結人は、今日は大学の講義に出た後、アルバイトに行くと言っていた。  たぶん、彼が帰ってくるまでには、食事の用意ができるだろう――。  そんなことを考えていたら、パッと信号が青に変わって、遥香は足を踏み出そうとする。  けれど――。 (……え?)  その瞬間、遥香は奇妙な感覚に囚われる。  何故だろう。  足が、動かない。  遥香を濡らす雨の音がざあっと大きくなった気がして――まるで雨の中に、閉じ込められてしまったよう。 (なんで……? 私、帰りたいのに……)  足が、一歩も前に出ない。  信号の青も、遥香を追い越して歩いてゆく人たちの姿も、雨にけぶる視界に、確かに映っているのに。  遥香だけが、その場から動けないままだ。    すいすいと横断歩道を渡っていく人たちと、自分との間には、何か……決定的な違いがある。  ――私……ここを……渡れない。  何故か、遥香は強烈にそう思った。  そしてそう思った瞬間に――ひどく、胸が苦しくなった。  視線が、足元へと落ちる。  地面に叩きつけられてぱたぱたと跳ねる雨粒が、いくつもいくつも、動かない遥香の足を濡らしていた。  ――どうして? どうして、私……。  じわ……っと、肌に触れる濡れた衣服の感触が、急に気持ち悪くなる。  喉を何かが迫り上がってくるような、強烈な恐れと不安が遥香を呑み込みそうになった、そのとき――。 「姉さん!」  鮮烈な声が、さっと遥香の意識に飛び込んできた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加