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当初は、個人事業主に毛の生えた程度の事業を細々続けていければ安泰だと考えていた。実際に最初の半年間は、父に手伝ってもらいつつ1人でやっていたが安定していたし、月によっては手取りが中小企業の役員並みになることもあった。
だが客と会うと彼らはさまざまなニーズを持っていることがわかり、してほしいことの相談をたくさん持ちかけられた。個人では対応できずに取りこぼすことが多く、惜しい気持ちが積み重なっていった。だから多様なサービスを自社でできるだけ賄えるようになりたいと考えたのだ。
本庄のように、下町の入り組んだ道にも詳しく、力仕事が得意で、明るくさわやかな接客もできて、なおかつ会社に対して忠実な男をみすみす手放すのはもったいない。おまけに働き盛りで、もしも子供ができれば今後は"妻子"という責任界の二台巨頭を抱える身になる。
人を1人増やすのは育成も含めて最も大きなコストだが、彼が空ける穴の損失を思えば、彼を抱き込んだ方が会社としてはプラスだ。この仕事で彼にわからないことなどなく、アルバイトの指導係も彼に一任している。
おまけに4年近く彼の働きぶりを見てきたから、仕事をする上で彼がどういう人間かというのは、誰よりも自分がよくわかっている。
「……ちなみにどれくらいの年収で探してるの?大学はちゃんと出てるもんね」
「はい。でもブランクもあるので……できれば450は行きたいですけど」
「手取り?」
「いや、額面で」
「……え、それだけでいいの?!男1人で生きてくならまだしもそれで結婚生活は無理くない???しかも彼女が派遣なら2人合わせても手取りなんかほぼ家賃と光熱費と食費で消えますやん!!!」
……と口に出しそうになったが、きっとこれが現代の普通なのだろうと思いとどまった。自分は社会を知らないという負い目のようなものもあるので、下手なことは言わないよう気をつけている。
「よ、450かあ……30手前でその額からスタートはなかなかキツそうだね」
「ですよね。もう少し条件落とすべきか……」
「いやいや、逆だよ。最低でもあと100はないと厳しくないかなあ。子供だって生まれるかもしれないし、いくら都内だって家族いたら大きい車もなんだかんだ必要になるよ」
「そうなんですけど……それくらい稼ぐには相当いい資格持ってて、なおかつシゴデキじゃないとダメじゃないですかね、さすがに。あと最低でもマーチくらいは出てないと」
「世の中ってそういうもの?」
「おそらく。まあ例外があるなら、俺が昔働いてたところの先輩は、高卒でも成績良くて当時25でも1千万とか貰ってましたけどね。そのかわり確実にサイコパスで、偉い人に気に入られるのがめちゃくちゃ上手くて、先輩の手柄は全部横取りしてましたけど」
「なるほど……特殊な例だね」
「あとは残業月100時間くらいできる自衛隊並みに体力のあるショートスリーパーとか、上司から胸ぐら掴まれたりスマホ顔に投げつけられても、その直後に談笑しながら平然とメシを食えるメンタルの人なら、それくらいいけるんじゃないですかね」
「つまり普通の人が普通に頑張るだけでは厳しい条件下にあるということだ」
「はい。あと東京で暮らすのは大変ということですね。まあ俺もこの辺出身なんですけど」
「この辺の家賃の値上がりが異常だもんなあ。うちだってあんな小さくてボロいオフィスでとんでもない額払ってるよ。倉庫とか支店の分も合わせたら毎月小型のSUV新車で買えるもん。……とまあそんな話はいいとして……額面450でいいとか言ってるなら、うちに来る?もう少しマシな額は出せると思うよ」
彼の希望給を聞いてから、天音の中で決断は早かった。
「え?」
「……いや、まあ、もちろん君のやりたいことを優先するから候補のひとつとして」
「いえ、いいんですか?すごく簡単に聞いてますけど……」
「いいよ君なら。面接とか育成の時間すっ飛ばせるし、何より信頼してるし。もちろん覚えてもらうことは今までよりずっと増えるけど。でも営業で探してたんなら、うちは社員に成功報酬出してるから、依頼を自分で取ってくるとかすれば残業しなくても稼げると思う。おじいちゃんおばあちゃんはネット見ないからさあ、自分の足でやれるならまだまだ獲物はいるよ。あと長話に付き合える忍耐力も要るけど」
「やります。耐えられます。やらせてほしいです」
「そのかわり君の結婚相手とちゃんと話し合ってね」
「はい。でも死んでもやらせてもらえって言うと思います」
「じゃあとりあえずその方向で」
「ありがとうございます!!社長、今日は俺がマック奢りますよ」
「何それ。いいって」
「じゃあラーメン行きましょう」
「残念なお知らせだけど、今日は店で座って食べる時間がないんだなあ」
「そっかあ、だからマックなんだ……」
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