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父親の意識が戻ったと看護師が知らせてきた。
ベンチで憔悴していた宮子さんとわたしは弾かれたように立ち上がると、処置室に飛び込んだ。
父親は酸素マスクをしていた。顔色はいいとは言えないが、目を開けて何が起きたのかわからない様子でわたしたちを見上げた。
「ご主人、わかりますか?平川宮子です」
宮子は父親の傍らに寄り添って手を握った。
わたしはというと、ただ突っ立ったまま、父親の変わり果てた姿を見下ろしていた。
「ああ、宮子さんか。ありがとう。宮子さんがいなかったら、わたしは今頃、天国だったよ」
「何をおっしゃいますか。縁起でもありません。ご主人、ご主人はアトリエでカンバスの前で倒れていましたのよ。それも絵筆を握ったまま。ご主人も歳なんですから、仕事はセーブしていただかないと」
宮子さんは軽く窘めた。
「そうか。うん。わたしも絵を描く以外、何もないからな。どうしても完成させたい絵があってね。これからは気をつけるよ」
父親はわたしに視線を転じた。
「お父さん、やっぱり、一人暮らしは何かと心配だから、わたし、家に戻ろうか?」
「いや。大丈夫だ。祥子はもう、いい大人だ。わたしから巣立って当然だ。そう言えば仕事はどうした?」
「今日は半休を取ったから。それより、具合はいいの?」
わたしは自然と顔が強張った。父親とは実を言うと、ここひと月ばかり会っていなかった。仕事が繁忙期ということもあったが、折り合いが悪い父親と会う必要性を感じなかった。家政婦の宮子さんから、ちょくちょく父親の近況も聞いていたので、尚更、距離ができた。
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