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「ああ、しばらく寝てなかったから、いい休養になりそうだ」
看護師が入室して、面会の時間の終わりを告げた。
まだ完全に完治したわけではないので、これ以上のおしゃべりは厳禁となった。
「握った絵筆を取れなかったから、ご主人は絵筆を握ったまま病院に運ばれたのよ」
帰りのタクシーの中の宮子さんは笑いながら話した。今こうして笑っていられるのも、父親が一命を取り留めたからで、もし、意識が戻らなければ、こんな雰囲気ではない。
「お父さんは本当に絵ばかり描いていたから、お母さんの容態が悪くなったことにも気づけなかったんだな」
「まあ。確かに男の人は仕事に夢中になると周りが見えなくなるそうだから。でも、男の人は家庭を持ったら、家族を養わなければならないから致し方ないと思うわ」
わたしは宮子さんの横顔を見つめた。宮子さんはうちに入って三年以上経つが、わたしは彼女のことを何も知らない。宮子さんもわたしのことや亜美の事件のことを知っているかどうかは疑わしい。
亜美の事件は十二年経って世間から忘れ去られようとしていた。でも今はインターネットですぐにわかる。ひどい時は被害者の顔写真まで載っている場合がある。どこの誰が無断で写真を載せているかわからないので、対処のしようがない。
「宮子さん、本来、娘のわたしが父親の身の回りの世話をしなければならないのに、宮子さんに任せきりで、これからはわたしも協力します」
「大丈夫よ。祥子ちゃん。祥子ちゃんはキャリアウーマンだもの。お仕事に専念なさって」
「ありがとうございます」
タクシーから降り立つと、すっかり日が暮れていた。
「ねえ、わたし、お夕飯作るから、いっしょに食べない?」
唐突に宮子さんが提案した。
正直、空腹を感じていた。宮子さんの料理は母親の味付けに近くて、わたしは好きだった。
考えてみれば、宮子さんの手料理をご馳走になるのは、本当に久しぶりだった。
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