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校舎を出ると、夏特有のなまあたたかい空気を切り裂くように滝のごとき雨が降っていた。
そんな中、傘を差して帰路を行く男子が一人。手ぶらの私は、濡れるのも構わず慌てて彼の元へ駆け出した。
「笠木くん。あの」
「天雨さん?」
振り返る彼。傘に隠れて表情は見えなかったが、気配だけで彼が驚いているのは丸わかりだ。
考えてみれば、学校の外で話しかけたのは初めてだった。いつもは自家用タクシーで送迎されているから。
そう思うとなんだか無性にドキドキしてきて、居ても立ってもいられない心地になった。
しかし私はそれを押し隠して、何でもないような顔をして彼を誘う。
「私、傘を持ってきていなくて。もし良かったら、貴方の傘に入れてくれませんか?」
女友達ならまだしも、普通は異性で同じ傘を使って二人で帰る、なんてことはしない。それに私と笠木くんは友達ですらない。
だからこれは、そういう意味なのだ。
ニブニブな笠木くんが気づいてくれるような気は、しないけれど。
☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎
「ありがとうございます。私みたいな可愛い女の子に気軽に傘を貸してしまう不用心さ、笠木くんらしいですね。好きです」
「今日はお迎えは来ないんだね」
「突然運転手の爺が腰を痛めて動けなくなってしまったらしく……。連絡が来たのが先ほどで、しかも雨が降ってきたものですから、とても困っていて。そこで笠木くんに頼ることにしたというわけです」
バケツをひっくり返したような猛烈な雨が傘に叩きつけられる音が響く。
大きな傘の下、触れ合うかどうかの距離で身を寄せながら私は、笠木くんに笑みを向けていた。
「でも嬉しいです。笠木くんとお話しできる手っ取り早い口実ができて」
「口実……?」
「はい。本当はずっと、こうして一緒に帰ってみたかったんですよ」
笠木くんはどこにでもいそうな、ごく普通の男の子だ。
頭はあまり良くなくて、顔立ちも平凡でパッとしない。陸上部だが運動はそこそこできるくらい。ボッチでもないが、人気者でもなかった。
一方で私は普通の女の子なんかじゃない。
どんなに勉強の手を抜いても当たり前に満点を取ってしまう。剣道部も弓道部も陸上部も、全部好成績。しかも美人。
私の上辺だけを見て告白してくるクソ野郎はいたものの、教室ではほとんど話しかけられなかった。
私は社長令嬢というやつだった。一流企業の社長の娘。とはいえ、親とは離れて暮らしているのもあって、家庭教師をつけられているのとタクシーで送迎されていること以外は特別なことなんてない。それでも周囲から浮きに浮きまくっていた。
そんな私を受け入れ、接してくれたのが同じクラスの笠木くんだった。
タクシーから降りて校舎に入った私に、唯一「おはよう」と言ってくれた。うっかり筆記具を忘れて困っていた私に鉛筆を貸してくれた。
「天雨さん」と優しく呼んでくれるのが、嬉しかった。
そのせいで男子から目の敵にされたり、嫌がらせされているにもかかわらず、私との些細な関わりを続けてくれた。
だから彼は、いつの間にか私にとって特別な存在となっていたのだ。
陸上部だって、彼が先に入部していたから入った。
剣道や弓道も、それまでは惰性でやっていたのが、彼に認知してもらえる機会が増えるかも知れない、などと考えて無駄に頑張った。
「おはようございます。今日も見慣れた平凡顔ですね。私は好きですけど」
「陸上部の走りを下手でも頑張っている笠木くんの姿、大好きです。練習を続けて、私に追いついてくださいね」
「本当は一緒に帰ってあげたいんですけど、タクシーが来たので、ここでさよならですね。……好きです。また明日!」
できるだけ冗談めかしながら、抑えられない『好き』の気持ちを言葉にする毎日。
驚くほど鈍い彼が応えてくれることはなかったけれど、それでも良かった。恋している時間は楽しかったから。
永遠にそうしていたかった。
高校を卒業してもこっそり笠木くんを追いかけて、あわよくば彼に意識してもらいたい……なんて思うくらいには本気だった。
――けれど、幸せな夢物語には必ず終わりが訪れるものである。
目を逸らし続けていた現実に追い付かれたのはあまりに唐突で、だが、受け入れるしかなかった。
だって私と彼はあまりに違う。
どんなに彼が優しくしてくれても私の立場は普通なんかじゃない。どうやっても彼と同じ、普通の人間になれはしないのだ。
それでもせめて、彼と一緒に喋りながら帰るというささやかな憧れは、叶えたいと思った。
そうすれば夢物語を諦められる気がしたから。
タクシーの運転手が来なかったのは腰を痛めたからではない。私が「一生のお願いですから」と頼み込んだのを、運転手の爺が聞いてくれただけ。
雨に託けて傘を貸してもらったが、たとえ雨が降らなくても笠木くんと帰るつもりだった。
……でも、そんな真実は、笠木くんには教えてあげないのだ。
☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎
同じ傘の下で語らう私たちの姿を、周囲を行き交う人々はどう捉えただろうか。
生暖かい目で見てくれれば一番いい。ひとときであっても、彼を独り占めできている気分になれるのだから。
雨音を聞きながら、私と笠木くんは他愛ない話をした。
好きな天気。笠木くんが差している傘をどこで買ったか、私が傘を自分で差したことがないという話、エトセトラ。
笠木くんのことを知れて、飛び上がるくらいに嬉しかった。知ったところで何にもなりはしないのに。
「……ぁ」
話に夢中になるうちに、いつしか雨音は弱まり、気付けばすっかり止んでいた。
広がるは雨上がりの清々しい空。青と夕焼け色が混じり合ったそれを見上げ、笠木くんが「綺麗だね」と笑う。
彼は雨上がりの空が一番好きらしい。つい先ほど教えてもらったことだ。
夏の通り雨だ。すぐに上がって当たり前。しかしそれを切なく思ってしまうのは、笠木くんと離れなければいけないからだろう。
相合傘は終わりだ。静かに畳まれていく傘を見つめて、ぽつりと呟かずにはいられなかった。
「もう少し、降り続けてくれたら良かったのに」
「なんで?」
「……何でもありません。嫌になるほど綺麗ですね。でも――笠木くんの笑顔の方が、ずっと輝いていて綺麗ですよ」
私は静かに足を止める。それに合わせて笠木くんも立ち止まってくれた。
雨上がり特有の涼しい空気が、私たちの頬を撫でるようにして吹き抜けていく。
――この風がどうか、少しでも私の小っ恥ずかしい言葉を彼の耳元へ届けてくれますように。
「好きです、笠木くん。ただの好きじゃ足りないくらい。笑顔も、声も、私に構ってくれる優しさも、全部全部好きでした」
鈍感な彼が勘違いしないように、真っ向から告げる。
「今までの『好き』は全部本気だったんです。……なんて言われても、きっと笠木くんは困りますよね。こんな一方的な言い方、困って当然です。でも安心してください、私、ただ、伝えておきたかっただけですから」
天雨さん、と笠木くんの唇が動く。
触れ合いそうな距離にいるのに、風の流れのせいで声は聞こえてこなかった。
「私、引っ越すことになりました。先週、離れて暮らす親から連絡があったんです。経営不振で親の会社が傾いて、援助を受けるために私を外国企業の社長の嫁として売るのですって。そういうわけで、残念ながら明日にはいなくなると思います」
淡々とした口調を心がけたが、震え声になってしまっていたかも知れない。
「今まで楽しかったですよ、毎日。こんなに楽しい日々は他にはないだろうと思えます。それもこれも、完璧で普通じゃない私を恋する乙女に変えてくれた笠木くんのおかげですね」
雨は上がったはずだ。
それなのにどうして、私の頬は冷たい滴で濡れてしまうのだろう。
「ですから笠木くんには責任を取ってほしいんです。……私を、こっぴどく振ってくれませんか」
泣き笑いで、頭を下げる私。
そのまましばらく無言で時が流れる。沈黙、沈黙、ひたすらの沈黙。そして――。
苦しそうな表情を浮かべて、彼は言葉もなくぎゅっと私を抱きしめた。
まるでそれが答えだと言うように。
ああ、優しい彼は、優しいからこそ、何も言えないのか、と気づいた。
無駄に頭がいいせいで、抱きしめられた理由を瞬時に理解してしまう自分が憎い。
彼もまた、私を好ましく思ってくれていたのだろう。
あまりにも彼が私の『好き』に応えないものだから、興味がないと思い込んでいて、その可能性を考慮に入れていなかった。
「……ごめん」
距離が近いから風に邪魔されたりはしない。
微かながら、今度はちゃんと聞こえてしまう。
朱い夕陽に照らされた初恋の人の顔は、歪んで見えた。
私の涙のせいか、彼もまた泣いているのか、それはわからなかったけれど。
貴方に期待した私が馬鹿だった。
貴方がそういう人だと知っていたのに。
「そうですか。それじゃあ――さよなら、笠木くん」
そんな顔をさせていたくなくて、見ていたくなくて。
大好きな人の腕を振り払って、大好きな人を突き放して、正面から吹く風に歯向かうようにしながら全力で走って逃げる。
私の双眸からこぼれ落ちる雨は、いつまでも止むことはなかった。
☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎ ☔︎
しとしとと降っていた雨は止み、綺麗な空が広がっていた。
この国の空は、故郷のそれと変わらない色をしていた。だから私はいつもいつも、雨上がりの夕暮れ空を見ると思い出してしまう。
この天気を好きだと言っていた笠木くんのことを。
彼の笑顔を。声を。苦しそうな別れの言葉を。
――あれから数年。私の幸せな青春時代は、今や遠い昔のことのよう。
なのに、あの別れの日の記憶は幾度も幾度も鮮明に蘇る。
今頃彼はどうしているのだろう。つまらない男の妻になって、可もなく不可もない社長夫人生活を送る私を見たら、どう思うのだろう。
そんな風に考えるけれど、無意味な行為だ。
彼は私を駆け落ちに誘うでもなく、振るわけでもなく、「ごめん」と謝った。ただただ優しいだけの人だった。
それが全てなのだから。
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