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序章2
――あ……スティーブの家に忘れてきたんだ……。
今日は、親友で同じ年のスティーヴン・バンフィールドの家に顔を出していた。
バンフィールド伯爵家は、高い魔力を持つ名門貴族だ。
コリンズ家は、昔から公私ともに世話になっていて、バンフィールド家からもらう仕事がなければ、暮らしていけないほどだった。
今朝も仕事の打ち合わせに赴いたのだが、偶然にも、スティーヴンの小さな従兄弟が集まっていた。
アーノルドよりも幼い子たちは人懐っこく、誘われるがままに「影遊び」で盛り上がった。
自身の影を遊び相手にするのは、魔力が芽生えたての子供が、よくする遊びの一つだ。
従兄弟たちは皆、バンフィールド家の持つ土魔法の力を有しており、影遊びに夢中になっていた。
影は、魔力の使い方が未熟な子供でも扱えて、従順な遊び相手になってくれる。
エリオットも、久しぶりに影を足元から外して、皆とかくれんぼに興じた。
そして、すっかり元に戻すのを忘れて、帰宅してしまったのだ。
かくれんぼをしていたので、今もバンフィールド家のどこかに隠れているはず。
影がなくとも害はないので、焦る必要はない。わざわざ取りに行かなくとも、次の機会に捜せばいいだろう。
「明日、図書館に行っていい?」
アーノルドの声に、エリオットは足元から視線を外した。
「ちょっと前に借りてたのは、もう読んだの?」
「うん。五冊しか借りてなくて、すぐに読み終わったよ」
借りたばかりの本は、どれも分厚く読みごたえのあるものだったと思う。
弟は読書が好きで、読むのも速い。
恥ずかしいことだが、コリンズ家は蔵書を全て売り払ってしまっている。
アーノルドは、学校や都立図書館で本を借りては、読みあさっていた。
「……学校が終わったら急いで帰るから……兄さんと一緒に行きたい。だめ?」
アーノルドは、黒々とした丸い目を、上目遣いにして聞いてくる。
弟の甘えた声音に、エリオットの胸に迷いが生じた。
転校の可能性もあるのだし、明日からは気持ちを引き締めて、しっかりと仕事を探さねばならない。
スティーヴンには、当主としてもっと厳しく生きた方がいい、とよく言われるのだ。
自分の甘さは自覚している。
優先順位と目標をきっちりと設けて、コリンズ家を少しでも豊かにしなければ。
アーノルドには、少し寂しい思いをさせるかもしれないが、こればかりは仕方がない。
と、思うのだけれど……。
「……いいよ。一緒に行こう」
エリオットは、アーノルドのお願いを前に、いともたやすく陥落した。
一切の感情を無くしていた弟が、おねだりをするようになったのは、この一年のこと。
それが嬉しすぎて、つい何でも叶えたくなってしまう。
いけないと分かっていながらも、アーノルド最優先の生活が続いていた。
「明日は、アーニーが帰ってくるのを待ってるね」
「うん……」
月明かりの中で、アーノルドが嬉しそうに微笑む。
喜びをゆっくりと噛みしめるような弟の笑みが、エリオットは好きだった。
この笑顔を守るためにも、当主として強くならないと。
これ以上、何かを失うのは耐えられないのだから。
「暗いから、階段は気をつけて」
「先週ね、スタンベリー先生が、昼休みに階段を踏み外して、足首をねん挫してたよ」
「それは痛そう……。明るくても、階段には注意しようね」
月光を頼りに、慎重に階段を降りていく。
書斎は、無駄に広い玄関ホールを横断した先にある廊下の奥だ。
建築時にどういう意図があったのかは分からないが、この館は玄関ホールがやけに広かった。
子供の頃は良い遊び場になっていたから、アーノルドにとっても嬉しいだろうか。
そう思いながら、ふと周囲を眺めて、エリオットはぞっと背筋を冷たくした。
ホールの隅にある、小さな窓が開いている。
戸締りには気をつけているし、あの窓は日常的に閉めきりだ。
確実に、知らない誰かが窓を触っている。
エリオットは、アーノルドの体を抱きしめて、ホールの隅にしゃがみこんだ。
「兄さん……泥棒?」
同じく窓に気づいたアーノルドが、耳にささやいてくる。
「分からないけど……誰かが勝手に入ってきてるかもしれない」
しがみついてくる弟の背を撫でながら、物音に耳を澄ませる。
書斎のある廊下の方から、こちらに向かってくる足音が聞こえた。
やはり、誰かが侵入しているようだ。
泥棒……なのだろうか。
当然だが、盗めるようなものは何もない。
貴族を標的にした盗難は、計画的犯行が多いと聞く。
貧乏男爵のコリンズ家が、標的に選ばれるとは到底思えないが。
何にしろ、泥棒だとしたら、一通り見て去っていくだろう。
それを待つか……。
ぐるぐると考えているうちに、玄関ホールに侵入者がやってきた。
二人の男だ。
ローブをしっかりと着込んで、一人は小さな本を持っていた。
泥棒にしては、違和感のある風体だ。
「兄さん……逃げる? 一番近い部屋に入って鍵を閉めて、様子を見て窓から外に出ようよ」
どうするかと悩んでいるエリオットに、アーノルドが耳打ちする。
弟の冷静な提案に、目をみはった。
男たちは、顔を突き合わせて、何やら相談をしている。
部屋に逃げ込むなら、今だろう。
「アーニー。絶対に離れないでね」
頷いた弟と視線を交わして、部屋まで駆け抜けようと腰を上げたと同時に、本を持っていた男が呪文を唱えはじめた。
――え、呪文――!?
呪文を必要とするのは、かなりの上位魔法だ。
どう見ても、ただの泥棒ではない。
この家で、何をしようとしているのか。
彼らの目的は全く分からないが、上位魔法を使われるのであれば、なおのこと早く逃げなければ。
そう考えて、男たちに背を向けて走り出した刹那。
アーノルドが、不自然に動きを止めた。
「アーニーっ?」
「に、兄さんっ……」
弟は、急にうずくまって、低く呻いた。
「どうしたのっ!?」
「くるしい……ぅっ」
突然、体を震わせて苦しむアーノルド。
エリオットは、慌てて弟の体を抱きかかえた。
「むねが……いたい……っ」
「アーニーっ」
苦しみ悶える弟を前に、なす術もなく狼狽えていると、小さな体が強い光に包まれた。
「か、体が……っ? アーニー!?」
アーノルドと呼応するように、呪文を唱えていた男の体も、強く光っている。
一体、何がどうなっているのか。
事態を全く飲み込めずにいると、周囲の空気が急速に冷たくなり、ピシピシと派手な音を立てて、玄関ホールが凍りはじめた。
――なにこれ……今の呪文で――!?
我が家が氷に覆われていく驚愕の光景が、エリオットの前に広がる。
状況が把握できない中、瞬く間に勢いを増していく強大な氷。
「魔力共鳴だ!!」
光っていない方の男が叫ぶように言った瞬間、侵入者たちは氷に飲まれた。
――共鳴!? どうして、アーニーに影響が……!?
もう、全てが理解の域を超えている。
ただ一つだけ分かるのは、この家から逃げなければいけないということだけだ。
エリオットは、苦しんでいる弟を抱きあげて、開いている窓に向かって疾走した。
背後から氷が迫ってくる。
――だめだ、間に合わない……っ。アーニーだけでもっ……!
館の全てが凍りつく寸前。
エリオットは開け放たれた窓から、弟の体を渾身の力で放り投げた。
「いてて……っ」
背中から芝生の上に落下して、アーノルドは顔をしかめながら、ゆっくりと体を起こした。
「兄さん……何が起こったの……?」
謎の苦しみが消えて、やっと周りに意識が向かう。
泥棒が呪文を唱えはじめて……それから何故、外に放り出されてしまったのか。
「え……? なんで……??」
顔を上げて、アーノルドは言葉を失った。
コリンズ家が、兄と住んでいる家が、開け放たれた窓をそのままに、完全に凍っている。
まるで、物語の中に出てくる氷の館。
今までに想像すらしたことのない、異常な光景だった。
「兄さんっ!」
アーノルドは、兄を呼んだ。
だが、氷の館の前には自分しかおらず、周囲は静寂に包まれている。
「ねぇ、兄さん……?」
謎の苦しみから解放された胸が、今度は嫌な予感に覆われて冷えていく。
「どこ? 返事してよ……」
アーノルドは、暗い庭に視線を向けた。
広く静かな夜のそこには、何の気配もない。
――いやだ、そんなの……兄さん――……
アーノルドは、現実を認識しようとする心から、意識をそむけた。
「兄さん、寒いよ……。兄さん、兄さん……っ」
アーノルドは、誰もいないと分かっていながら、兄を呼んで庭をさまよった。
涙で視界がうるむ。
いつもなら、優しい手が、すぐに涙を拭ってくれるのに。
頬が涙で凍てつき、痛みが走る。
こんなに寒いのは、家が凍ったせいだ。
アーノルドは、おそろしい現実に身体を震わせながら、異様な存在感を放つ氷の館と相対した。
「……兄さん、ちがうよね……?」
目の前には、開け放たれたまま硬く凍った窓。
室内も全て凍りつき、家は巨大な氷となっていた。
――信じたくない……。けど……兄さんは――……
「兄さん、お願い……出てきてっ……。いやだよっ」
アーノルドは小さな手で、氷の壁をたたいた。
凍りついた家を見た瞬間から、心の奥底では分かっていた。
この奥に兄がいることを。
庭に放り出されたあの時。
家が氷に閉ざされる直前に、兄は自身を犠牲にして、アーノルドを助けてくれたのだ。
「うそだって言ってよ……離れないって、さっき約束したよ……兄さんっ、兄さんっ……!」
つい先ほどまで、兄とつないで温かかった手で、氷の壁をたたき続ける。
これは、きっと夢だ。悪い夢。
朝になれば兄に優しく起こされて、いつもの一日が始まる。
学校が終わったら急いで帰って、一緒に図書館へ行って。
そして、夕食は、クロエが作ってくれた美味しいシチューを食べるのだから。
――こんな夢、早く終われ、終われっ――……っ!
アーノルドは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、心の中で強く願った。
しかし、どれだけ泣き叫んでも、どれだけ氷をたたいても、悪夢が終わることはなく。
兄のエリオットが、アーノルドを優しく起こしてくれる朝は、いつまで経ってもやってこなかった。
暗い庭をさまようアーノルド
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