【再掲】祈還

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じゃり、とコンクリートと靴底の間で砂粒が音を立てた。そろそろ玄関も掃除をしなきゃ、と思いながら、この部屋に外掃き用の箒はあっただろうかと首を傾げる。まあそれはおいおい、今度、由愛(ゆちか)が来た時に聞くとして、と思いながらアパートのドアを開けると、開ける前はささやかだった蝉時雨がわん、と鼓膜を襲った。 「暑……」 海辺の町に特有の湿気が多分に含まれた熱気に溜息が漏れる。暑さのピークを過ぎて、文字盤の上では夕刻になろうという時刻なのに、外はまだまだ暑い。でもまあせっかく出歩く気になったのだから少し歩こうか、とサンダルに突っ込んだ足を前に出した。 昔は静かな別荘地として流行ったのだという小さな海辺の町。いつしかそんなブームは過ぎ去り、別荘は色褪せ、一部は朽ち果て、当時の輝きを失っている。小、中、高校と、最低限の教育機関は揃っているそうだが、進学のために街を出て行く子供も多く、過疎が始まっている、典型的な、よくある田舎の町だ。そんな何もない海辺の町に俺がやってきた理由を俺は知らない。気が付いたら防波堤に腰かけて、夕暮れの海をぼんやり眺めていた。名前も、年齢も、何をしていたのかも思い出せなくて、どうしていいのかも分からなくて、ただ海を眺めていた。そんな俺に声をかけてきたのが瑞野(みずの)由愛だった。 「じゃあ、記憶が戻るまでウチに住む?」 実家がアパート経営をしていて、借り手のない部屋がいくつかあるのだと彼女は言った。彼女の勢いに圧され、最初こそ申し訳ないな、と思いながら間借りしていたのだが、気付けばアパートの一室に居ついてしまっていた。あれから少し日数が経っているのだが、なぜか記憶がないことに対する不安や焦りは全くない。けれど、何もせずに由愛に養われているような状態でいるのは心苦しくて、俺は手がかりを求めてこの町を歩き回る。目的は全くない。まるで海の中を回遊する魚のように漂っているだけ。 「…………」 夕方に差し掛かっても、町の中に人はあまりいない。たまに老人や子供らとすれ違ったりするが、俺が余所者だからか、気付いていないふりをする。好奇の視線に晒されるよりはマシかと思って俺は歩く。 「やだよー! 日焼けしちゃうもん!!」 少し先の角から、三人の女の子の集団が飛び出して、海の方へ駆けていく。その後ろから、荷物を抱えた男の子が数人。確かあの角を奥に行くと高校があったはず。彼らはその高校の生徒だろう。同じ部活のメンバーか、クラスメイトか、それとも気心がしれた友人たちか。どれが正解かは分からないが、仲は良さそうだ。 「なんだよー、海に行くのに入らないなんてアリか!?」 男の子たちが不可解なものを見る顔で呟いている。それを見て、俺は少し懐かしい気持ちになる。俺も似たようなことをぼやいたことがある気がする。あの男の子たちくらいの頃に、あれくらいの年頃の女の子は殊更そういうことに過敏だと呆れ返った。そして、別に日に焼けてようが焼けてまいがその魅力は変わらないと思った。 ――それは、いつの。誰への。そもそも、俺の、記憶だろうか? 記憶を辿る思考の海に沈みそうになった俺の鼻腔を微かな匂いがくすぐって我に返った。あの高校生集団は既に海へと向かったのか、姿はおろか声も聞こえなくなっていた。 仄かな匂いを辿って、未だ入ったことのない細い路地に入り込む。この匂いは。 「……ぁ」 細い路地を抜けた先は僅かに開けた墓地だった。コミュニティの中で古くから弔いの場として使われてきたのだろう。墓石は年季が入っているし、都市部にあるそれのように整然と並んでいる訳でもない、古くからの墓地。墓石の灰色と、地面の茶色。それしかない墓地に、白が揺れた。視線を向けた先には、由愛がいた。鮮やかな花が添えられ薄く線香の煙が立ち上る、とあるひとつの墓石の前で両手を合わせて俯いていた。まだ、もう少しお盆には早いのに。 声をかけるべきか、かけずに立ち去るべきか。 出会ってから今日まで、快活で明るい由愛しか見たことがなかった俺は、どうしていいのかが分からずに戸惑った。こんな由愛は知らない。 「…………」 「?」 俯き祈る由愛の口元が何事かを呟いたように見えた。人名? それは、その墓の下に眠る誰かの名前だろうか? 「こんなところでどうしたの?」 「!?」 どうやら考えるあまり、呆けていたらしい。俺は由愛に声をかけられて我に返った。 「え、あ、いま……?」 秘密を覗き見たような気がして後ろめたい。そんな俺の心情には気付かず、由愛は「うん、もう終わったから大丈夫」と笑った。 「……その、誰の……?」 聞いていいものか迷いながらそう切り出す。「幼馴染の月命日」と由愛は寂しげに微笑んだ。 「口はあんまり良くなくて不器用だったんだけど、優しくてちょっとおっちょこちょいで可愛い人だったの。地元に戻ってきて、漁師をしてたんだけどね。海に落ちて行方不明になって……それっきり」 だから、その墓石の下にその人はいないのだと由愛は言った。どこか遠くを見るような視線の向こうには、その人の面影が浮かんでいるのかもしれない。由愛が愛おしそうな表情をして、そんな風に思い描けるくらいに記憶しているその人は、きっと由愛の大切な誰かだったのだろうと思った。そして俺はそこに僅かな嫉妬心めいた感情を覚えた。生者(現在)が死者(思い出)に敵う訳がないというのに。 「……俺じゃ、駄目か?」 俺の声なのに、俺の言葉じゃないような、そんな台詞が口を付いて出た。俺は余所者で、漂っているだけ。いつかここから旅立つ人で、そもそも記憶喪失で己が何者かすら分かっていない。端から由愛が想うその人以上に由愛を幸せにできる訳がないというのに。 「…………」 由愛は、目を丸くして言葉を失くした。しつこいくらいの蝉時雨に混じって、幻聴のように海の音が聞こえ、ややあって由愛は俺を見て、ふわりと微笑んだ。 「……駄目だよ。君は、ゆくひとなんだから」 その声が耳に届いた瞬間に、波の音の幻聴が強くなった気がした。潮の香りが強くなって鼻腔の奥にこびりつく。ただ立っているだけなのに呼吸がしづらくなったような気がした。息がしたくて、溺れた人のように喘ぐ。 「……大丈夫……?」 その最中に滑り込むように入ってきた由愛の声で我に返った。途端に賑やかな蝉時雨が戻り、海の音は聞こえなくなる。 「かえろうか」 「ああ、うん……」 今しがたの白昼夢の厭なイメージの余韻を引きずりながら、少し低い由愛の背を追う。 「もうすぐ、お盆だね」 振り返らないまま、由愛が言った。白のロングスカートの裾が波頭のように揺れて。 俺では由愛を幸せにはできない。だから俺は、由愛の想うその人がどんな形であれ、早くここへ戻ってくるようにと心の中で小さく願った。 20200805初出 20240722再掲 鳥鳴コヱス
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