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◇
時は少し遡って――その日もオフィス内は、朝からピリピリとした空気に満たされていた。
「おい、羽柴」
「はい!」
地を這うような低い声で呼ばれ、羽柴は反射的に背筋を伸ばす。
声をかけてきたのは、鬼上司と名高い主任・犬飼蓮也だった。
犬飼は華奢で色白な見た目をしているものの、鋭い眼光と威圧感は見るものを震え上がらせると、もっぱらの評判だ。その一方、艶やかな黒髪と、美しく整った顔立ちから漂う色気がたまらないと、ひそかに人気が高いのも確かなのだが――。
とにもかくにも、羽柴はメールチェックを切り上げて、犬飼のもとへ向かう。
目の前に突きつけられたのは、羽柴が作成した取引先への提案書だった。犬飼は眉間に深い皺を刻んでいる。
「この提案書では何も伝わってこない。競合他社との差別化も曖昧だし、付加価値をまったく感じられない。君は何のための商談だと思っているんだ?」
「それは……もちろん需要と供給のマッチングと、円滑な取引の仲介をする為の」
羽柴がおそるおそる答えると、犬飼はフンッと鼻を鳴らした。
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