しょっぱい方舟 (1)

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しょっぱい方舟 (1)

 ドブニコの姿が見えなくて、港の方へやって来たがすぐに見つけられた。  天への旅路を進み始めていた木船の船底は、すでに私の頭上を越えていた。これまで見た中でもっとも小さな船だった。乗っているのはふたりの……年老いた……夫婦だろうか。斜め上を見据えたまま、こちらに目を向けることはなかった。  かつては「旅立つ者」に対し罵声を浴びせたり、石を投げつけたりする者も少なくなかったが、今では港で「見送る者」自体ほとんどいなくなった。  それでも(ねた)まれる存在であった頃の名残か、「旅立つ者」は皆、港の方を振り向かず天へと昇っていく。 「カナサ夫妻はさぁ」  私が近づいていることに気づき、ドブニコが(つぶや)く。 「娘がいて、これがすごく優秀だったらしいんだけどさ、中央で偉くなって」  ドブニコはため息混じりに続ける。 「(とんび)が? (たか)? まあつまりさ、あの嫌われ者の殺人鬼共も、この度お目出度(めでた)くも恩赦ってわけ」  カナサ夫妻の(うわさ)は聞いていた。夫婦それぞれが銃を携え、彼らの村を支配していた。夫妻に(まつ)わる血生臭い話はおそらく誰もが耳にしていた。 「くだらない、すごくくだらないなぁ」  ドブニコは肩をすくめる。 「ドブニコは、ここを脱け出して天に行きたくないの?」 「ヘドはバカだなぁ。私はカナサ夫妻より下層」 「火葬?」 「下賤な者ってこと。持たざる私より、(たか)を生んだ殺人鬼が優遇されたんだ、つまり」  一瞬言い(よど)み、それから薄い笑みを浮かべドブニコが言った。 「もう私の船は出ないんだよ、たぶん」  太陽は随分と前に姿を見せなくなり、替わりに現れた空を覆うほど巨大な輪っかは、相変わらず地上に薄(あか)りを(そそ)いでいる。そして()が沈む頃になると、輪っかの光は徐々に弱まっていく。  私とドブニコは酸素を()いて長い夜に備えようとするが、ドブニコはすぐに息苦しそうに呼吸を乱した。  酸素の量が落ち着くと、いつものようにベッドに潜り込み、裸になって抱き合ったが、ドブニコがじっと窓の外に視線を合わせているのを見て、今日は朝まで眠れないのだろうと思った。 「旅立つ者さ」  ドブニコが遠くを見たまま口を開く。 「うん」 「最初は適当に選ばれてると思った」 「そうだね」 「だから家族の中で私だけ漏れたのも、たまたまだと思ってた」  ドブニコの両親は慈愛に満ちた善人で、宗教者として数多(あまた)の慈善活動に従事し、その功績によりしばしば表彰されていた。周囲から尊敬を集める立派な人物であったが、ドブニコとは最後まで折り合いが悪かった。  ドブニコの家族は最初の「旅立つ者」に選ばれ、大型船に乗り天へと渡った。ドブニコと目を合わせることなく。  しかしその後、何度出航が繰り返されてもドブニコが「旅立つ者」のリストに入れられることはなかった。 「カナサ夫妻は娘が偉いってだけで最後の最後で救われた。じゃあどうして、私は……」  そこまで言ってからドブニコは軽く(せき)払いをし、はにかむような笑みを浮かべながら、私の首に手を回した。 「なんてことをね、考えちゃった。それを言ったらヘドが選ばれないのは、もっとわからないことだけどさ」
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