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第32話 約束
和やかな空気の中、ネフィがお茶を用意してくれて、殿下と二人ソファに座る。その間も殿下の腕は腰に回されていて、一年という時間を埋めるようにぴったりとくっついていた。
待ち侘びていた人がすぐ傍にいる。それがこんなにも幸せな事だなんて、私は知らなかった。お父様やお母様、ネフィや他のメイド達。みんな大事な人ではあるけれど、やっぱり殿下は特別だ。
でも、ささやかな時間はそう長くない。満ち足りた空間を壊したのは、控えめに扉をノックする音。殿下が返事をすると、野太い声が返ってきた。
「殿下、ご歓談中に申し訳ございません。間もなく軍議のお時間です。ご準備を」
その声には少しの焦りが見えた。たぶん、ぎりぎりまで待ってくれていたのだろう。殿下も素直に従い立ち上がると、私の左手を取って口づける。恒例になりつつあるこの仕草は、嬉しい反面、寂しさも連れくるのだった。
――いつでも、傍に。
そんな想いが込められた口づけだから。でも今日からは違う。
「それじゃ、リージュ。夜には帰るから、待ってて。一緒に夕食を食べよう。料理長も張り切っていたし、きっと御馳走だよ。ずっと味気ない野戦食だったから、すっごく楽しみ」
ふわりと微笑む殿下につられて、私も頬が緩む。
「はい、お待ちしております。ずっと一人だったから、嬉しいです。殿下のお好きなトラウトのムニエルをメインにお願いしましょう。料理長がいつも言っていたのです。ムニエルの日は、とてもご機嫌だったって」
一年前は、夕食を共にする時間も少なかった。軍議や軍の編成、その他の細々とした雑務に追われ、顔を合わせない日もあったほど。私も及ばずながら遠見で視た会話や風景から、あちらの戦力を図り騎士団長へ伝えていた。
その中で、まだ知らない一面を料理長はあれこれと教えてくれる。この離宮の料理長は話し方も陽気な方で、敬意を払いつつも気安げな口調は親しみやすかった。なんでも以前は王宮の副料理長だったそうで、王家の方々の食の好みを把握し、采配するのは責任重大だという。時には毒見役が亡くなられる事もあり、その調査への協力も仕事のひとつだと言っていた。その結果、部下が捕えられた事もあるとか。そうでなくても、陛下方の体調や食材の管理、害獣対策などに追われているのにと嘆いていた。
そんな料理長が何度も口にしていたのが、トラウトのムニエル。トラウトは回遊魚で、夏から冬にかけて大陸北端の国、オーケンドの海を経由して隣国エムエまで遡上してくる。産地で獲れたトラウトは干物にされてカイザークへと運ばれ、市に並ぶ。干物にする手間暇と輸送には危険も伴うため、そう安い品物ではないけれど、貴族のみならず、国民の間でも人気があった。
そして、料理長から聞いた、とっておきの情報が。
「いつか干物ではないトラウトを召し上がるのが夢だそうですね?」
そう言うと、殿下は耳を赤くして口を尖らせた。
「もう、揶揄わないでよリージュ。昔の話しなんだから! 料理長め、後で文句言わないと……」
一年で一気に背を追い抜かれ、大人びたと思っていたけれど、こうして見るとやっぱり十四歳の少年だ。どこか置いていかれたような気持ちになっていた私は、ほっと息を吐いた。
「ふふ、揶揄ってなんていません。その夢の遂行には、勿論私もお供してよろしいのでしょう? エムエまでは馬車で約十日、ちょっとした旅行ですね。今からとても楽しみです」
一応料理長の援護も入れながら、殿下との未来を思い描く。それは幸せな風景で、もしかしたらそこには新しい家族もいるかもしれない。殿下も同じように考えてくれたのだろう。額をすり合わせ、約束してくれた。
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