第1章 開花

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第4話 天使と悪魔  王宮の玄関を入ると、広いエントランスが出迎えた。中央に敷かれた真っ赤な絨毯。磨きあげられた大理石の床。上階へと続く、重厚な階段。  全てが美しい。  幾度か訪れた場所だけれど、その度に呑まれてしまう。そこには既に家令が待っていた。一礼すると、先に立って歩き出す。その後に続くと、いつもならエントランスの真正面に位置する扉の奥、舞踏会場へ直行する所を、階段へ(いざな)われる。  長い廊下を歩き、到着したのは三階の部屋。その部屋は、扉の装飾も素晴らしかった。舞踏会場の扉は重厚だけれど簡素だから、ここが位の高い部屋だと一目で分かる。家令がノックすると「入って」と、ハイトーンの声が返ってきた。  扉が開かれると、家令が道を譲る。その脇を通って部屋に入ると、大きな窓から差し込む陽差しが目を焼いた。  そこにいたのは、本物の天使かと見まごう美しい少年。見事な金の髪は襟足が長く緩やかに波打ち、紫の大きな瞳が煌めいている。まだ背は小さく、私の肩に届くくらいだろうか。フリルがたっぷり取られたドレスシャツに、膝丈のハーフパンツ。白いレース地のハイソックスが足元を覆っている。  初めてそのご尊顔を拝見したけれど、一目で王太子殿下だと分かる。殿下はその美麗なお顔で優雅に微笑み、小鳥のような涼やかな声で私を呼んだ。 「リージュ、会いたかった。この日をどれだけ待ったか。ああ、ドレスもよく似合ってる。凄く綺麗だ。さ、こっちにおいでよ。ここに座って」  棒立ちの私を急かしながら、ソファの隣を叩く。私は殿下の美しさに見惚れて、反応が遅れてしまった。はっと我に返り、礼を取る。 「お初にお目にかかります。フェリット伯爵家が一女、リージュでございます。王太子殿下におかれましては……」  しかし、その言葉は殿下に遮られた。 「何を言ってるのリージュ。僕達、会うのは初めてじゃないよ。もしかして、覚えてないの?」  殿下は眉を垂れ、悲しそうに顔を歪める。私は慌ててしまって、アワアワと口篭ると、傍までやってきた殿下がそっと手を取り見上げてきた。その瞳は潤み、私を写す。 「五年前だよ。君のお披露目パーティーの時に、出会った。まだ八歳だった僕は、好奇心でこっそり会場に忍び込んだら転んじゃって。泣いていたら、君が見つけてくれたんだ」  私の手を優しく撫でながら、うっとりと囁く殿下。その声を聞きながら、私は必死に思い返していた。  確か五年前のあの日は初めての王宮に浮かれて、父の静止も聞かずあちこち見て回っていた。その内に父とはぐれて、庭に出てしまったんだ。  そこで、殿下と会った?  うっすらと浮かぶ小さな影。でもあれは、ドレスを着た女の子だったような。髪も長くて見事な金色の……。 「は!? まさかあの時の女の子が殿下!?」  殿下は思わず叫んだ私をじろりと睨み、口を尖らせる。 「酷いな。女の子だと思ってたの? 僕お嫁さんになってって言ったよ」  そう文句を口にしながらも私の手を引き、ソファへ座らせると何故か足の上に跨る。そのまま私に撓垂(しなだ)れ掛かって首に腕を絡ませた。 「あの時、君は優しく手当してくれた。どこの誰とも分からない僕に。あの時から僕は君の虜だよ。この髪も瞳も、忘れた事は無い。やっと手に入れた。僕のリージュ……」  甘く囁く殿下の声が耳を(くすぐ)る。頬を撫でながら近づいてくる殿下の顔に、私は気が動転してしまった。 「で、殿下! お待ちになって……!」  胸を押して抵抗する私にも、殿下は余裕の表情だ。これではどちらが年上か分からない。 「リージュ、照れてるの? 可愛い。もう食べちゃいたいよ」  そう言いながら、グリグリと腹部に押し付けられる硬い物。それの正体に気付いて血の気が引いた。 「殿下!? あの、私達はまだ婚約者で、いや、それも解消していただけないかと……!」  私のその言葉を聞いた途端、殿下の瞳が剣呑に細められる。その瞳に射抜かれて喉がヒュっと鳴った。 「婚約を解消? そんなのダメだよ。君は僕の妃になるんだ。まだ身体も小さくて満足させてあげられないけど、すぐ大きくなるから。僕が十六になったら結婚しよう。盛大な式を挙げて、国民に知らしめるんだ。未来の王妃がどれほど美しく、聡明なのか」  美しい!?  聡明!?  私が!?  それはあまりに過ぎた評価だ。自分の容姿が平凡な事くらい自覚している。殿下にはどう映っているのだろうか。不敬だけれど、その目は濁っているのでは……。 「あの、殿下。私は自分が平凡だと、十分理解しております。お褒めいただいて光栄ですが、私など殿下には相応しくありませんわ。もっと若くて、美しい姫君はいらっしゃいます。私はただ、手当をしただけの身。それだけで王妃など恐れ多い事です」  恐る恐るそう進言しても、殿下は納得してくれない。更に顔が近付き、唇が今にも触れそうだ。すぐ目の前にはアメジストの瞳。それは蕩けた様な艶を持ち私を見つめる。 「やだ。君じゃなきゃ意味が無い。君は自分を平凡だと言うけど過小評価が過ぎるよ? ねぇ、この国の博士が何人いるか知ってる?」  突然投げかけられた問に、私は瞬きをして答えた。 「博士ですか? 種類は様々ですが……全部で八十九名です」  するりと出た答えに殿下は微笑む。そしてもうひとつ。 「それじゃあ、ツェンウェッツ大学の地質学名誉教授の名前は?」  何がしたいのか分からない殿下の問に、私は素直に答えを重ねる。 「ヤグジェ・ホード教授です」  それに殿下の笑みは深くなり、細い指がそっと唇をなぞった。その感触にぞくりと体の奥が疼く。 「ほら、ね? 普通の令嬢は博士の数や、教授の名前なんて知らないよ。他にも医者の数、国専占者の数、子息令嬢の名前もかな。君は答えられるよね。それは特別な事なんだよ? 他の令嬢なんて、着飾る事しか頭に無いボンクラだから」  美しい笑顔で言う事は辛辣だ。  でも、特別?  私はただ、父の仕事の手伝いになればと覚えただけだ。それを特別だなんて、買い被りもいい所だろう。これくらい、他の令嬢だってできるはずだ。私はなんとか頭を回転させて逃げようと抗う。 「……ユシアン様。ユシアン様は王太子妃の最有力候補とお聞きしています。そのお方ならきっと!」  でも殿下は、目に見えて嫌悪感を表した。顔が整っているだけに迫力があって冷や汗が背中を伝う。 「ユシアン? あいつこそボンクラの筆頭だよ。宰相の親を盾にして、僕の婚約者気取り。勝手に王家の色を使うような奴なんだ。不敬罪で牢屋にぶち込みたいね。まだ僕にはその権限も無いから放置してるけど、このままじゃ君に害があるかもしれないし、そろそろ……」  殿下が言いかけたその時。  いきなり扉が音を立てて開いた。  そこに立っていたのは少し、いやかなりふくよかな少女。まだ幼いその少女は、レースやリボンが(うるさ)いドレスを身にまとい、ジャラジャラと髪飾りを鳴らしている。燃える様な赤毛は、強烈な印象を与えた。緑の瞳も赤と相まって、気性の荒さを現している。その上ドレスはどぎつい農紫、金銀の装飾品も色とりどりの石が使われていた。全ての色が反発し合い、混沌としている。  しかし、紫を身に付けられるのは王族のみ。一瞬妹君かとも思ったけれど、殿下の態度で違うと分かる。  殿下は、私に向ける表情から一転。凍るような眼差しで少女を睥睨した。 「誰が入室を許可した? 出ていけ」  殿下の言動から、おそらくこの少女がユシアン様なのだろう。冷たい殿下の声にも、ユシアン様は一歩も引かない。 「アイフェルト様! その女は誰ですの!? 浮気は許しませんわよ!」  幼い少女だと言うのに、舌っ足らずな口調で出てくる言葉は擦れている。とても公爵令嬢とは思えない行動に、私は面食らってしまった。殿下は離れるどころか、見せつけるように私を抱きしめる。 「浮気? この人は僕の婚約者だ。この世でただ一人のね。邪魔者は貴様の方。とっとと消えろ。目障りだ」  殿下、口調まで変わってませんか?  そんな殿下にも負けないユシアン様は、ズカズカと部屋に入ろうとした。それに厳しい殿下の声が飛ぶ。 「つまみ出せ」  殿下の命令で、壁際に控えていた侍従が動き出す。殿下の美しさに目を奪われてすっかり忘れていたけれど、この部屋にはネフィや侍従がいるんだった。先のやり取りを見られていたのかと、今更に頬が熱くなる。  侍従がユシアン様を押し返すと、ギャンギャンと喚く。本当に公爵令嬢なのか疑わしいその行動は、王妃にはどう考えても向いていない。こんなお方が王妃になろうものなら、外交も混乱して戦争待った無しだ。 「退きなさい! (わたくし)を誰だと思っているの!? アイフェルト様! 貴方に相応しいのはこの(わたくし)以外おりません! そのような下賎(げせん)な女! きっと財産を食い潰す豚ですわ!」  その言葉で殿下が切れた。絶対零度の眼差しでユシアン様を睨みつける。 「黙れ。豚は貴様だ。公爵令嬢としての勤めも果たさず、金を食い散らかすだけの白豚が。貴様に名を呼ぶ許しも与えた覚えは無い。気安く呼ぶな。リージュを侮辱した事、後悔させてやる。未来の国母を貶めたんだ。殺してやる。打首なんて生温い物じゃない。あらん限りの拷問で、殺してくれと懇願するまで(なぶ)って、最期は生きたまま豚の餌だ。覚悟しておくんだな」  愛らしい声を低く響かせて、辛辣な言葉がスラスラと流れる。あまりな言いぐさに、ユシアン様も青ざめていた。それでも、意地があるのか震える声で呟く。 「わ、(わたくし)は宰相の娘で……アイフェルト様の婚約者だと、言って……」  殿下は、鼻を鳴らすと切って捨てる。 「宰相がなんだ? ︎︎僕より偉いとでも言うのか? ︎︎国王たる父の許しも無く、勝手に婚約者を自称するなど、到底看過できないな。宰相の越権行為も今までは目零(めこぼ)ししてきたが、我慢の限界だ。父上に陳情(ちんじょう)するとしよう。現宰相は更迭(こうてつ)、爵位も危ういだろうな。貴様も処刑。今までの罪を償う事だ。ざまぁみろ」  そう告げると、殿下は私の唇に吸い付く。咄嗟の事で避けられなかった私は、口内を蹂躙(じゅうりん)する舌に翻弄される。それは初めての口付け。それなのに、殿下は手加減してくれず声が漏れ出る。 「ん……や、で、んか……んぅ」  執拗な口付けは、淫らな音を響かせる。耳からも犯されているようで、腰砕けになった私の唇を舐めてやっと開放される。体に力が入らなくて、殿下の肩にくたりともたれかかった。  そんな私の髪を、愛しげに撫でる殿下。まだ十三歳なのに、どこでこんな技術を身につけたのか問いただしたい。  その様を見せつけられたユシアン様は、ブルブルと震え真っ赤に顔を染めている。それは羞恥か怒りか。 「アイフェルト様……! ︎︎(わたくし)というものがありながら、そんな女に口付けなんて! ︎︎正気ですか!? ︎︎これは父に報告させていただきます! ︎︎この泥棒猫! ︎︎絶対許さないんだから!」  そう喚き散らすと、踵を返し部屋から出て行ったてしまった。
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