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第6話 おまじない
私はふわふわする頭を、なんとか働かせようとするけれど、殿下の顔が間近にあって、蕩けるような笑みを浮かべている。それがまた美しくて、見惚れてしまった。
そうする間にも、殿下に妖しい手つきで耳を触られ、ぞくりと背が粟立つ。
「ん……っ」
思わず零れる声に、殿下は気を良くする。
「リージュ、可愛い。とんだ邪魔が入ったけど、もう大丈夫。明後日には婚約も発表されるし、僕が守るから。そうだ、もういっその事、王宮に住めば良いよ。うん、それが良い」
突然の提案にも、私は反応できない。そんな事、無理に決まってる。婚約発表もされていない令嬢を囲ったとなれば、殿下の進退にも関わってしまう。どうにか反対しようと口を開きかけると、また塞がれた。
熱い舌が口内を蹂躙し、唾液が銀糸を引いて溢れ、浮上しかかった理性は溶かされ堕ちていく。その隙に殿下が指示を出した。
「ネフィ」
そう呼べば、私のメイドは無言で頭を垂れる。何故メイドの名前までご存知なのだろう。殿下にしてみれば、末端の者なのに。回らない頭では、そんな思考も泡となって消えた。
「すぐに準備を。部屋はもう用意してある。必要な物はこちらでも準備するから、大事な物だけ持ってくるように。急げ」
殿下の声は緊迫していた。
それはネフィにも伝わったのだろう、カーテシーをすると早々に部屋を後にする。
――待って。
そう手を伸ばそうとしても、殿下に絡め取られた。指に口付けを落とし、上目遣いで私を見つめる。
「リージュ。ダメだよ。この指輪はこっち」
右手の薬指から指輪を抜き取ると、改めて左手の薬指に嵌め、その上から口付ける。するとピリッとした小さな痛みが走った。それと同時に手が熱を持つ。ちらりと見ると、薄い桃色の花の模様が浮かび上がっていた。
「うん。ちゃんと機能してるね。ほら見て。僕の花紋が浮かんでるでしょ? ︎︎これは古いおまじないだよ。むかしむかし、まだ魔法がこの世界にあった頃の遺物。これで君は僕の伴侶になった。僕にも、君の印を頂戴」
そう言って左手を差し出す殿下。そこにはダイヤこそ付いていないけれど、私の物と同じ幻瞳迦の指輪があった。どうすればいいのか分からず、殿下を見つめると瞳を細め教えてくれる。
「指輪に口付けて。ただそれだけ。大丈夫、何も怖い事は無いよ」
私は言われるがまま、殿下の指輪に口付ける。すると、さっきと同じように、手の甲に花の模様が浮き出た。私のとは違い百合の花だ。それは私の花紋。貴族は誕生花を自身の花紋として身分の証明に使う。勿論、重複する事もあるけれど、それぞれ意匠が異なり、同じ物は二つとない。
その百合の花を見て、殿下は破顔する。
「嬉しい。やっぱり君も僕を想ってくれてたんだね」
その言葉に私は首を傾げる。段々とはっきりしてくる頭でも追いつけない。
魔法は、遠い昔に実在したとされる秘術。私も少し学んだけれど、今は研究する人も減り続ける一方で資料も少なく、知識はそれほど多くは無い。
殿下もそんな私に気付いたのか、ついと私の指輪をなぞりながら話し始めた。
「このおまじないはね、お互いが好き合ってないと効果を発しないんだ。僕の花紋が出た時点で確信はあったけど、失われて久しい術だからね。不安もあった。でもこうして君の花紋が僕の手にある。これが何よりの証拠だよ」
ふわりと綻ぶように頬を緩める殿下に、私は紅潮した。だって自分でさえ気付いていなかった事なのだから。
――つまり、私は殿下が好きっていう事?
そんな、会ったばかりの人を好きになるなんてあるのかしら。確かに、一目見て綺麗なお方だと思った。天使と見まごう美貌。優しい声、仕草。でも殿下は五年前から私を想ってくれていたのに、見た目だけで好意を寄せるなんて、それではあまりに軽薄だと思う。
それに私は、婚約解消をお願いしに来たのだ。真摯に想ってくださる殿下に失礼だろう。
私は意を決すると、深呼吸して殿下の瞳をひたと見つめる。
「殿下。無礼を承知でお願い申し上げます。どうか婚約をお考え直し下さい。伯爵家の娘では、王妃の重責には耐えられません。私を重用してくださるのは、とても光栄な事でございます。しかし、私など凡庸な小娘に過ぎません。何卒、ご容赦ください」
殿下は静かに私の言葉を聞いてくださった。でも、寂しげに微笑むと私の手を取り、祈るように額に押し付ける。
「突然の申し出で困惑してるのは、僕も分かってる。それでも諦められないんだ。この五年間、君に近づく奴らは皆排除してきた。君に求婚者が現れなかったのは、僕が邪魔していたから。君を狙っていた奴らは、数え切れないほどいた。それを王太子の力でねじ伏せてきたんだ」
辛そうに告白する殿下は、それでも目の力は失われていない。まさか殿下が求婚の打診を握りつぶしていたなんて。そこまでして、何故私に拘るの?
ただ幼い頃に、たまたま出会って手当しただけの子供を、五年も想い続けるなんて。当時殿下は八歳だ。その頃から私を欲しがるなんて、ませていると言うか。
二の句を繋げずにいる私を気遣いながら、殿下は続ける。
「ごめんね。でも僕はどうしても君を手に入れたい。この国を導く次代の王妃は、君にしか務められないんだ。君には類稀なる能力があるんだよ。まだ調査が済んでいないから、はっきりとは言えないけど……勿論、それだけじゃない。君の為人、美しさ、豊富な知識。その全てが僕の心を離さない。まだ十三歳の伯爵令嬢が、軽い傷とはいえ、的確に手当したんだよ? ︎︎後で御典医に見せたけど。すごく褒めてた。出会ったのは八歳で、世間知らずだったけど、あらゆる手段を使って君の事を調べた。勝手にやった事は謝るよ。でも君の事を知っていく内に、どんどん惹かれていったんだ。今はあの頃のような非力な子供じゃない。学術も武術訓練も、暗殺に耐えうる術だって、できる事はなんでもやった。それも全ては、君を手に入れるためだよ」
未だに私の足に跨って手を握りしめたまま、熱の籠った眼差しでうっとりと囁く殿下は。十三歳と言うには艶があり過ぎて、私は顔に熱が集まってくる事に焦りを覚えていた。このままでは言いくるめられてしまう。
私は必死に訴えた。
「私にしか務まらないとは、どういう事でしょう。それに何故、今なのです? ︎︎婚約自体は十三歳の制限はありますが、約束を取り付ける事は可能なはずです。それなのに急に言われても、どう受け取れば良いか……それに、このおまじないも。五年前にお会いしていたとしても、私は殿下だと気づいておりませんでした。それどころか、女の子だと思っていたのですよ? ︎︎そんな女が好意を示したとしても、簡単に信用すべきではありません」
殿下はひとつ頷くと、私の手を撫でながら理由を教えてくださった。
「うん。まずひとつ目。僕のお披露目に合わせて求婚したのは、君を守るためだよ。さっきの見ただろう? ︎︎宰相はあのユシアンを王妃にしたがっている。それなのに君の存在が見つかってしまったら、何をされるか分かったものじゃない。他の求婚者達には、キツく口止めしていたからね。誰も僕を敵には回したくなかったらしい。大人しく言う事を聞いてくれたよ。今日のお茶会だって秘密裏に進めていたのに、どこから聞きつけたのか……あまりに醜かったから、婚約の事を言ってしまったし、君の身を守るためにも王宮にいた方がいい」
溜息を吐くと、真剣な目で私を見つめる。その瞳は真摯で、私の事を想ってくれているのが分かった。
そして私の左手に、自身の左手を添えて花紋を並べる。そこには花弁が三つ並んだ紋様がある。私にはクルクマが、殿下には百合が。
「それからこのおまじない。これはお互いの想いとは別に、魔力も必要とするんだ。魔法が失われてから随分時間は経っているけど、魔力は存在するんだよ。君にはその魔力が溢れてる。王家は魔力のある血を代々受け入れてきた。それが、君を王妃に迎えたい理由のひとつ。でもそれだけじゃないよ。僕は君を愛してる。見ればわかるけど、僕の花は三つとも満開なのに、君のは全部蕾でしょ? ︎︎これは愛情の深さを示してるんだ。君の中の恋はまだ咲いてないって事だね。でも。好意は持ってくれてる。愛情なら、これから育んでいけば良い。時間はたっぷりあるんだから。僕はこの百合が満開になるように頑張るよ。それまで無理強いをするつもりは無いから、安心して」
殿下は一際笑みを深めると、手の甲に口付けを落とす。あまりに美しいその面差しに、私頬は紅潮した。
歳下とはいえ、初めての求婚。しかも惜しみない愛情を向けてくれる殿下に、私の心は揺れ動いた。
魔力の事も初めて聞く話だ。確かに、王家へと嫁ぐ令嬢は、皆どこかしら浮世離れしていた。現王妃は先見の力があると言われている。国王が指揮を執る時に、助言という形で方向修正するのだ。それは外れた事が無く、それ故に宰相も思い通りに事を進めずにいるとか。
――そんな力が私に?
今までそんな片鱗感じた事さえない。何か特別な事が出来る訳でも無いし、ごく普通の人間のはずだ。でも、私なんかよりよっぽど多くの知識に触れられる殿下が言うのだから、そうなのかしら。それに、実際に母君であられる王妃様がお傍にいらっしゃるのだから説得力はある。
私は返答に困り眉を垂れると、殿下が明るい声で言った。
「大丈夫。君は何も心配しなくていい。ここで一緒に過ごしながら、お互いを知っていこう。僕の力もその内見せてあげる。ここには信頼の置ける学者もいるからね。君の魔法の素質も分かるはずだよ。君は既に、王妃を務めるに相応しい教養も身につけているし、僕が成人するまでの三年間で、外交について勉強すれば十分間に合うよ。僕も君に相応しくなれる様に、勉強も訓練も頑張るから」
左手を絡めながら、殿下は私の瞳を覗き込む。
「だから、僕の妻になってください」
その艶のある声に、ドクンと心臓が脈打つ。私は身体中が熱くなって声が出なかった。
でも、それは隠す事ができない感情。
「ふふ。花が一輪咲いたよ」
自身の左手を撫でながら、殿下は嬉しそうに笑う。そこには百合の花が一輪、綻んでいた。
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