君にしか弾けない音がある

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コンクールの結果は見るまでもなかった。 僕のピアノはたとえどんな偉人の、どんな名演奏だったとしても、コンクールで入賞することはない。 あのピアノは作曲者や時代背景などの理解を一切無視した、僕のピアノだったからだ。 僕は荷物をまとめて、会場を出る。彼女は、まだ、いるだろうか。 「……お疲れ様」 会場を出ると、そこに彼女がいた。僕を待っていたようだ。 「結果は、残念だったね」 「わかっていてやった。それがわからない君じゃないだろ?」 「まあ、そうだね。それだけ長い時間、ピアノに触れてきた。嫌でもわかっちゃうよ……色々ね」 視線が地面に落ちた。彼女の頬が赤らんだ。 「それにしても、世界大会がかかったコンクールでよくもあんなめちゃくちゃしたね。人生の転機になるかもしれなかったのに、よかったの?」 たしかに、僕はピアニストになりたいという夢がある。このコンクールで結果を出し、世界大会に挑み、そこでまた結果を出せば、夢に一気に近づく。 そんなことはわかっている。 でも、自分の夢以上に大切なものだって、この世界にはたくさんある。夢は人生の全てじゃない。 「別に、世界大会に行く方法は他にもある。コンクールだって、今回で終わりじゃない。また、次、挑戦すればいいだけの話だ」 「……次、か」 彼女の視線が空に向かった。手も伸びる。太陽をつかもうとしている。 「僕の演奏を聞いて、気が付いてるよな」 「もちろん。君のピアノには、最初にわざと弾いた音以外、わたしの弾けない音は入ってなかった」 僕は先ほどの演奏の中で、彼女が弾けない音をあえて弾かずに演奏をした。それは、音がないけれど、音楽にとってはノイズになる。 本来あるべきものがない演奏。その音楽を聴き慣れている者程、違和感を感じる演奏だっただろう。 でも、あえてそうした。そうすることでしか、証明できないと思ったから。 「わかっただろ。君はピアノを諦める必要はない。たしかに、イップスが治らなければ、コンクールへの入賞は叶わない。だけど、僕らがなりたいのは、コンクールの入賞者じゃない。優勝者でもない」 「……そうだね」 僕らが目指すものは、聴衆を魅了するピアニストだ。 コンクールはその踏み台でしかない。 でも、いつしかコンクールで優勝をすることが目的と化していた。それは間違いだったと、彼女から教えてもらえた。 彼女はピアノを諦める必要がない。 それを、僕は証明したかった。 ある一音が弾けない、というのはたしかにピアニストとしては致命的だ。ピアニストとして終わったと思っても無理はない。 だけど、それは逆に言うと、その人の長所にも成り得る。 ある音が弾けないピアニスト。 それは過去の偉人たちでも真似できない、その人だけのピアノの演奏が存在しているということに他ならないから。 何とか、それを僕は証明できたと思っている。 激情に任せて、感情のうねりに任せての演奏だったから、もう、あの演奏は二度とできない。 心はすり減ったし、指先の震えは今でも止まっていない。 だけど、音楽はそういうものだ。 譜面を正確に弾くことを求められるのは、それが基礎だからだ。だから、それ自体は否定されるべきじゃない。 でも、そこで留まってはいけない。その基礎の先に、自分の音楽があるのだから。 そして、僕らはもう自分の音楽を持つ資格があるはずだ。 もちろん、プロのピアニストとは比較にはならないのはわかっているけど。 「それで……」 彼女が不意に僕の服の裾をつかんだ。上目遣いで僕を見る。 「あの演奏は、えっと、んっと、告白でもあった、っていう理解でもいいんだよね?」 顔を真っ赤にしながら、聞いてくる。 「……それ、口にしたくないから演奏に乗せたのに」 僕は口下手だから、饒舌であるピアノに想いを乗せた。君を好きだ、という想いを乗せた。 我ながら面倒くさい人間だな、と思うけど、それが一番伝わる。特に彼女が相手ならその方が伝わる。 彼女がそっと僕の頬に触れた。 「ありがとう」 彼女は一条の涙を流した。そして、柔らかな笑みを僕に向けてくれた。 「これから、わたしと一緒にいてください。こんな情けないわたしのこと、よろしくお願いします」 僕は彼女を抱きしめた。 「いつか、二人でコンサートを開こう」 「うん! いつか、わたしたちの音で、世界を魅了しよう!」 ~fin~
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