君にしか弾けない音がある

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「わたし、ピアノ、やめるんだ」 ライバルだった彼女が、突然、そんなことを口にした。 必死に笑顔を作っているのがわかった。もう十年以上の付き合いだ。それぐらいはわかる。 彼女がピアノをやめるきっかけになった理由はわかっている。 イップスだ。 ある日のピアノのコンクールで突如、その症状が出た。 ある音を引こうとしても、指がそれを拒絶する。本人曰く、反発し合う磁石のような感じだそうだ。 一音だけ。でも、そのたった一音が引けないのは、音楽家にとっては致命的だった。 ピアノが評価されるためには譜面通り弾くことが大前提となる。コンクールなどであれば、猶更そうでなければならない。 だから、一音弾けなければ即減点。まして彼女の指は別の鍵盤を叩いてしまう。全く違う音が出る。曲に不協和音が生まれる。 どれだけそこまで綺麗に弾けても、その一音で彼女のピアノは崩壊する。そこで全てが終わってしまう。 しかも彼女の指が拒絶する音は、滅多に使われない一音ではない。基本的には多くの楽曲で何度も登場する音だ。 彼女は、何度も克服しようと試みた。もがき、苦しんだ。泣きながら、何度も何度も鍵盤に向かい、歯を食いしばり、情けなさに自分の頬を何度も叩きながら、自分に立ち向かった。 だけど、症状が改善することは一向になかった。 もう、心も体も限界だった。 心は折れ、粉々になっていた。体も、うまくいかない怒りで、殴る叩くなど自傷してしまい、ボロボロだった。 それでも、彼女はピアノと戦い続けた。楽しかったピアノとにらみ合いを続けた。 彼女にはピアノしかなかったから。 ピアニストになりたいという夢を持ち、全てを捧げてきた。同年代の子が遊んでいる時もピアノ。寝る間も惜しんでピアノ。とにかくピアノに向かってきた。 だから、簡単に手放すなんてできない。 だって、手放してしまったら、自分自身に何も残らないことを知っているから。 それはとても怖いことだ。自分のアイデンティティを作っていたものがなくなるということは、すなわち、自分自身の存在意義を失う、ということと同じだ。 僕はそれをどうしたって理解してしまう。僕もまた彼女と同じような人間だからだ。 彼女の出した結論は、悩みに悩みに悩みに悩み、やっと出したものだ。 きっと、僕はそれを歓迎すべきことなんだと思う。 彼女のために、というのはもちろんのことだが、自分にとっても。 彼女のピアノのスキルは、僕より上だ。哀しいが、これは認めざるを得ない。だから、ピアニストとしてのライバルが減る、というのは歓迎すべきことなのだろう。 僕は彼女から目を背けた。 「そう……なんだ」 「うん……指が、言うことを聞いてくれない以上、仕方ないよ」 ふと、彼女を見ると、泣いていた。笑いながら、泣いていた。 必死に我慢していたものが、あふれ出ているようだった。彼女自身、泣いていることに気が付いていない。 やめたくないんだ、ピアノを。 こんなにボロボロになっても、ピアノをやめたくないんだ……。 気が付けば、僕は彼女にこんなことを言っていた。 「今度のコンクール、見に来て欲しい」 酷なのはわかっている。ピアノを弾きたいのに弾けない彼女にピアノを聞けなんて言うのは、傷口に塩を塗っているようなものだ。 だけど、僕のピアノを聞いて欲しかった。 どうしても、聞いて欲しいと思った。 「そこで、僕の全力を見せる」
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