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 そして迎えた、離任式。  溢れる想いを抑えるのも、今日で終わりにしよう。私は今日、この恋から卒業する。揺れる桜の花びらを眺めて、そう強く思った。  そのために、先生とふたりで話さなければならない。式が終わった後、大きな花束を抱え、私は職員室へと向かった。先生は今にも崩れてしまいそうな、儚い表情をしていた。まるで、散る直前の桜のようだった。   「遠野先生」  先生はゆっくりと、切なさを包み込むように微笑んだ。 「あの、本当に、ありがとうございました。私、先生の授業が大好きでした」 「……っ、ありが、とう」 「私っ、あの。先生のおかげで古典が、大好きになったんです。先生が……、わたしの心を照らしてくれて」 「……川上さん、」  先生の声色が降ってきた瞬間、ぐらりと滲む視界。  それを遮るように、瞳から溢れる雫を無視して、私は唇を動かした。 「先生。わたし、先生のこと好きです」    心臓から、身体がいっぺんに壊れてしまうのではないかと錯覚するほどの緊張だった。でももう、後悔はなかった。これで、全部終わりなんだから。拒絶されたってなんだって、この想いを伝えられたなら、もうそれでいい。他には、もう何も要らない。  唇を強く噛んで、私は上を見る。  先生は予想通り戸惑いの表情を浮かべていたけれど、包み込むような微笑みを私に向けてくれた。   「川上さん」 「……っ、はい」 「有難う」  先生の声色で響いた、「有難う」の五文字。先生は、酷く嬉しそうな表情をしていた。  有難し。めったにないもの、めずらしいもの、だからありがたし。  古語の意味なら、どんなに咄嗟でもすらすらと出てきた。一気にフラッシュバックした、あまりに美しい記憶たち。 「あのね」 「いつかそんな恋もあったなって、懐かしく想える存在であってほしい、な。私は川上さんの青春の一部になれたことを、本当に嬉しく思います。私を好きになってくれて有難う」  よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて。  きっとこの恋もうたかたで、叶うはずなどなくて。 「されど、わたしは、」    透明な水が、先生のなめらかな頬を伝って流れた。  窓の向こう咲く桜に目をやると、途端夢のような心地に陥る。 「かぎりあるみち」 「……前に授業でやったの、覚えているかしら」 「あぁ、えっと。源氏物語。限りある、命……」 「そうね。私たちは、いつか死ぬ。どんなに祈ったって、その事実は変わらない。そういう定めのもと、この世に生を受けたの」  先生から注がれる、美しく真っ直ぐな眼差し。あぁ、生きていてよかったと、心が強く叫んでいた。この瞬間のために、今までの人生があったのだと、なんの疑いもなくそう思った。 「川上さん……じゃなくて、和花。生まれてから死ぬまでの、そのみちを歩く途中で、貴女に会えて良かった」 「先生」 「だからね、和花。私、貴女のことずっと忘れない。大好きよ、春に咲く花のように美しい、貴女のその心が」  言葉が出なかった。目蓋を閉じ、溢れんばかりの涙を拭う。 「有難う、ございます」  私の気持ちは、しっかりと先生に届いた。  この恋は、泡沫だけど、泡沫じゃなかった。花だった。この叶うはずのない恋だって、あまりに美しく散っていく花だったのだ。それはまさしく、流れゆく桜の花びらだった。 「遠野先生、大好きでした。お元気で、さようなら」  散っていった花屑は地に落ちて、自然の一部となるのだ。次咲く花の、栄養になる。  だから、大丈夫。もう、何ひとつ、悔いはなかった。
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