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第3話 一ノ瀬家の人々
「あら多希さん、遅かったんですね」
「ただいま帰りました、お母様」
あまりすぐには出会いたくなかったな、と多希子は思うが、とりあえずは笑顔を向ける。
「すみません、ちょっと資生堂の竹川町店で買いたいものがあったのを思い出しましたので、銀座へ寄り道しましたの」
さすがに時間が遅くなりすぎたか。
帰ってみたら、玄関横の応接間に、待っているピアノの教師の姿が見えた。
そうなると下手に隠し立てするよりは、銀座に行っていたことは話した方がいい、ととっさに彼女は判断する。
「まあ、だったらお買い物を頼めば良かったわね。新製品が出ているはずなのよ」
一ノ瀬夫人はにっこりと笑う。
「何か切らしてましたの? お母様」
「ええ、ほら、新発売の『ドルックス』のクリーム。何でも、澄んだ感じの良い香りがするそうですよ」
うきうきと夫人は言う。
確か、と多希子は思い出す。
先日居間に置いてあった家庭雑誌に広告が載っていた。
舶来品に負けないものだ、ということらしい。
多希子自身はそう興味は無い。
今日のぞいていたウインドウにしても、どちらかと言えば、化粧品よりは洋菓子だった。
「じゃあ今度見てきますわ」
そうね、とにこにこと夫人は手を合わせた。
いつの間にか、銀座に「寄り道」していたことは何処かへ行ってしまっている。
「ピアノの先生もお待ちですからね。早く着替えていらして」
「はい」
にっこりと笑い、多希子は自室へと向かう。
そしてその話は終わり。
ふう、と彼女は胸をなで下ろした。
彼女は自分のそういう、小賢しい所はあまり好きではない。
だがそれは、この家で上手くやっていくこつだ、と思っていた。
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