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「結婚されるんですね」
彼の言葉が私を刺した。私は指輪を隠すように手で覆ってぎゅっと握った。婚約者の好意も周りの後押しも、拒むには優しすぎた。
『恋人が出来るまでの間でいいんです』
初めから決められていたことだ。私も彼がその恋人になることはないとわかっていたのに。
「…先日、結納を済ませました」
声が掠れてしまった。動揺を悟られまいとするほど鼓動は速まる。
「それでいいんですよ。僕では君を幸せに出来ない」
「そんなこと! あの日、あなたが美術館に来てくれたら、私は…」
言わずにはいられなかった。彼のその言葉で、お互いに同じ気持ちを抱えていたのがわかった。
「でも、そういう約束でしたから」
「どうしてそんなに冷静でいられるんですか」
はっきりと今度は彼を詰った。自分だけが熱くなっているのがもどかしくて悔しかった。彼はそんな私を宥めるように言葉を継いだ。
「父が事故に遭った時、僕もその場にいたんです」
「え…」
「命に別状はなかったんですが、右足の膝から下を失いました」
カウンター越しにその姿は見えない。そう言われて初めて片隅に立て掛けられた松葉杖が目に入った。
「そんな…」
「僕はやっぱり、君を守ることは出来ない。もうこれ以上巻き込まない方がいいと思ったんです」
「勝手ですよ、そんなの。私の気持ちはどうなるんですか。伝えたいことがたくさんあったのに、急にいなくなってしまって。ただあなたに会いたくて、それを思うだけで苦しくて」
想いはあふれて止められなかった。もうこの気持ちが何なのか私だって気づいている。知らなければよかったという彼の気持ちも痛いほどわかった。
それでも私は後悔したくない。
「私、透さんが好きです」
恋にこんな無様な気持ちがあるなんて思わなかった。相手への想いが形を変えて醜いばかりで、自分も相手も傷つけてしまう。でも、それは彼の優しさから来るものだと今ならわかる。
「あなたもそうなんでしょう?」
「嫁いでいく君に、これ以上伝えることはありません」
私は指輪を掴んで引き抜くと、ハンカチに包んでハンドバッグにしまった。
「これなら聞かせてもらえますか」
彼が大きなため息をついた。諦めの悪い強情な女だと、きっと呆れているのだろう。でも、これで最後なら彼の本当の気持ちが知りたかった。
静かな時間が流れていく。カラン、と木が触れあうような軽やかな音がした。厨房と隔てているバタ戸が開いて、松葉杖をついた彼が私に近づいてきた。
こつ、こつと、ゆっくり。
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