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頼まれた買い物を済ませて、あとは家に帰るだけだった。急げば間に合うと思っていたのに、頬にぽつんと雨粒が落ちた。真上には雲が広がっているが、西の方は青空だった。
すぐにやむかしら
考えたのもつかの間、トタン屋根にばらばらと雨が落ちる音が次第に激しくなってくる。滴がワンピースを濡らして、私は急いで目の前の喫茶店の軒下に飛び込んだ。昼間なのに辺りは瞬く間に薄暗くなった。雨はいよいよ激しさを増して、天水桶をひっくり返したような勢いで降っている。抗えない自然の力に呆然としていると、コーヒーの香りがふんわりと漂ってきた。
雨宿りさせてもらおうか
思いきってドアの取っ手を引くと、少し重たげなドアベルが鳴って、カウンターに佇む青年が顔を上げた。テーブル席は閑散として、明かりもほとんどついていなかった。
「あの、やって…ますか」
「はい。どうぞ」
男性がにこっと笑って自分の前を示したので、私はほっとして丸椅子に座った。
「ただ、僕は留守番なのでコーヒーしか出せないんですけど、いいですか」
「はい。お願いします。急な雨で、軒先をお借りするだけなのも何だか申し訳なくて」
「お気遣いなく。お客がいなければそれはそれで楽しみ方があるというものです」
およそ商売っ気のない彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「ちょうど淹れたところなんですよ」
すぐに琥珀色の液体がカップに注がれる。さっきの香りがまた鼻先を掠めていった。終戦から二十年ほど経って、舶来品は私たちの生活にだいぶ馴染んできていた。
「いただきます」
少し苦味が強いが、とても香りがいい。砂糖を入れるのが勿体ないほどだった。
「美味しいです」
「あなたは運がいいですよ。これは今日だけの特別ですからね」
「雨のおかげですね」
お店の雰囲気もいいし、飲むたびに心が落ち着いていく。私は思いついて一人で行動することが多いのだが、見知らぬ男性とこんなふうにお喋りできるなんて思ってもいなかった。
ふと店の奥に目をやると、そこだけ妙に明るく光っている。不思議に思って近づいてみた。
「気になりますか。ジュークボックスですよ」
お金を入れると中で機械が動いて、リクエストしたレコードが流れる仕掛けだ。先日、会社の同僚たちとボウリングに行った時も見かけた気がする。ざっと並んだタイトルは全て洋楽だった。
「どうぞ。一曲」
硬貨を差し出して彼が微笑んだ。
「いいんですか? ありがとうございます」
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