空の知らない虹

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 わくわくしながら曲名を辿っていくと、見覚えのあるひとつに心を惹かれた。硬貨を投入して曲の番号を選ぶ。 聞こえてきた冒頭部分のギターに、彼の頬が緩んだ。 「いいですね。僕も好きです」 「初めて聞いた時は、胸が震えました」  邦楽にはないリズム、ギターの音色、斬新な髪型。彼らの全てが私たちにはとても新鮮だった。私の拙い英語力では、彼らが伝えたい想いの何分の一も理解できないかもしれないが、歌の間はその世界に浸ることが出来る。あっという間に曲が終わり、また静けさが戻ってきた。 少し寂しくなって、何か話そうと口を開きかけた時だった。壮年の男性がお店に入ってきた。 「お帰り。父さん」 「おや。(とおる)の恋人かな」 「お客さんに失礼ですよ。もう帰られるところです。僕も上がっていいでしょう?」 「ああ、ありがとう。助かったよ」  彼は私に微笑むとドアを開けてくれた。いつの間にか雨はすっかりやんでいた。 「駅までご一緒してもいいですか」 「あ、ええ」  急に話を振られ、遅れて鼓動が速まってくる。再び顔を出した太陽は既に傾き始めていて、湿った土の匂いに混じって、早々と夕餉の支度の匂いがしてきた。彼がなぜ私と道行きをを決めたのか真意は測りかねたが、さりげなく車道側を歩く彼に安堵を覚えてもいた。 「強引にすみません。もう少しあなたとお話ししたかったんです。僕と友だちになってくれませんか」  思ってもみない申し出に驚く私に、彼はぽつりぽつり話し始めた。 「僕は体が弱いんです。結核で肺の一部も切除しました」 「それでお父様のお手伝いを」 「はい。会社勤めは無理ですから」  今では結核も不治の病ではなくなったが、私も知人を亡くしているし、根強い偏見を持っている人や集落もある。 「本を読みながら、のんびり店番です」 「羨ましい。私は一人であちこち出歩いて、父によく叱られます」 「そのおかげで今日はあなたに会えました」  微笑む彼にそう言われて、嬉しくもあり少し恥ずかしくもあった。駅に着くと、彼はポケットから小さな紙片を取り出した。 「隠れ家みたいな雰囲気の素敵な店なんです。ジャズがかかっていて、コーヒーも僕が淹れるよりずっと美味しいんですよ」  その店のものらしい名前が書かれていた。 「明日、会えませんか」  異性に誘われるなんて初めてだった。彼の言葉が聞こえてはいるのに、理解が追いつかない。また心臓が速くなり始めた。 「明日は、ちょっと…」 「じゃあ、明後日(あさって)。その次、週末でも」  私に被せるように彼が矢継ぎ早に投げ掛けるので、私は吹き出してしまった。それで私の緊張も解けた。 「ごめんなさい。平日は仕事があって。週末ならいつでも」 「よかった」  彼はほっと息をついた。彼もまた緊張していたことに私も胸を撫で下ろした。そして、私たちは次の土曜日に一緒にお昼を食べることになった。
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