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「僕のこんな体では、恋愛や結婚は到底無理だと思ってます」
奥まった静かな席に着いて、それぞれのコーヒーを味わったあと、透さんは真顔で切り出した。
「あくまで友人としてのお付き合いをお願いします」
「はい。喜んで」
真剣な彼の声音に少し気圧されてしまったが、私もそのつもりだった。身近な男性にはない雰囲気を纏った彼と、話をしてみたいと思った。
「男女の間に友情は成立しないと言われますけど、かといって友人が欲しいと思う気持ちにまで蓋をするのも、時に虚しくなるんですよ」
体が弱いために不自由を強いられている。同年代との交流もなくてはやりきれないのだろう。その正直な想いに触れて、私に彼を元気づける手伝いが出来たらと思った。
「あなたに恋人が出来るまでの間でいいんです。僕の話し相手になって貰えたら嬉しい。でも素敵な人がいたら、迷わずその方を選んでください」
「こんなお転婆の貰い手なんてあるかしら」
「大丈夫。きっと現れますよ」
私を励ますかのような力強さだった。店内には薄く音楽が流れていた。ジャズはあまり知らなかったが、会話の邪魔にもならず適度な大きさでしっとりと耳に入ってくる。優しい旋律に二人の会話も弾むようだった。
透さんとは週末ごとに会った。
美術館や映画館に行ったり、新しく出来たお店を冷やかしたり。時には河原の土手で風に吹かれながら、取り留めのない話をした。
彼は人と距離を置くところがあり、壁を感じることもあったが、彼の話は私の好奇心を満たしてくれた。読んだ本や好きな映画、音楽のことなど話題には事欠かなかった。
『涙のことを「空知らぬ雨」って言いますけどね。泣いてても泣きやんでも誰も気づかないなんて、天にも見放された気分になります』
彼が肩を竦めて、長年抱えてきた苦しみを吐き出したかに見えた。
『結局、人は独りなんだなって』
『辛い時も嬉しい時も、心の底から分かち合える人がいたら心強いですものね』
彼の抱える孤独は、彼をひどく臆病にさせていた。まるで初めから期待しなければ、失う悲しみを和らげることが出来ると、自分に言い聞かせているみたいだった。
男は強く逞しく、女は目立たずしとやかに。家庭に入るのが女の最良の幸せで、それを支えるのが男である。呪文のように聞かされて育った世代だ。そのこともまた彼を追い詰めていた。
『せめて涙の後には、君のように笑顔でいたいものだね』
『雨上がりの虹が見えたらいいですね』
『虹か。見てみたいな』
慈雨のような眼差しの彼は、あの時の笑顔がいちばん輝いて見えた。
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