34人が本棚に入れています
本棚に追加
会社帰りに彼のお店にも時々顔を出した。
透さんはいつもカウンターの中にいて、私を見つけると笑顔で手を挙げる。店主である彼の父親もまた、穏やかな人だった。
「何だ。やっぱり恋人じゃないか」
私が二度目にお邪魔した時に、そう言って楽しそうに私たちをからかった。
「父さん。彼女は貴重な僕の友人です」
「仲良くしてやってください。根暗な本の虫ですが、悪い奴じゃありませんので」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「先の大戦で母と兄を亡くしてますので、寂しがりなんですわ」
どことなく翳りがあるのは、病気のせいだけではないようだ。温和な父親に子ども扱いされて、彼は苦笑いしていた。
ある日、映画の帰りに雨に降られた。透さんはジャケットを脱いで私に被せると、肩を抱き寄せて走り出した。伝わる体温と、息づかい。大切に扱われて自尊心が満たされる。駅に駆け込み、二人は呼吸を整えた。私はハンカチを取り出して、彼の髪を拭いた後にジャケットの水滴も拭った。
「君も濡れてしまったね」
彼は自分のハンカチで私の頬を拭いてくれた。優しく触れた色白の細い指は、思ったよりも冷たくてびくっと体が震えた。彼が手を止めて私を見つめてきた。少しの間、二人とも動けなかったが、すぐに彼が微笑んだ。
「やっぱり傘を持ってくればよかった」
「すぐやみますよ」
「君は本当に楽観的だね」
彼とならどんなことも楽しめた。急な雨が通りすぎるのを待つくらい全然構わない。
「物を知らないから、怖いものなしなんです」
「知らなければよかったと思うことも、人生にはたくさんあるんだよ」
そう言った彼の切なげな横顔に、胸がぎゅっと締め付けられた。人よりも肩身の狭い、寂しい思いをしてきたせいで、彼の優しさは繊細さと隣り合わせだった。私は彼のそんな儚さに惹かれていたように思う。
少しずつ彼への思慕が募っていき、彼との時間はかけがえのないものになっていった。
最初のコメントを投稿しよう!