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夏が終わって、秋の長雨の季節が巡ってきた。
時々遠回りをしてあの喫茶店の前を通っても、いつもドアは閉まっていた。気持ちが宙に浮いたまま、時間だけが過ぎていく。
その日も私は傘を差して同じ道を辿っていた。
雨模様の視界にぼんやり店先の灯りが見えて、私は思わず立ち止まった。ずっと待ちわびていた光景だった。周りの音がかき消されるほど、自分の鼓動がうるさくて手が震えていた。バッグの持ち手を固く握りしめて歩き出すと、店の前で再び足を止めた。カウンターに人影が揺らめいて、私は思いきってドアを開けた。
ドアベルの音に彼がこちらを振り返った。会いたかったその面差しに涙が滲んだ。彼は驚いた表情を見せたが、私だと認めると笑顔になった。
「こんにちは。ご無沙汰していまいましたね」
「…入ってもいいですか」
「君を追い返すわけにはいきませんよ」
くすりと笑って彼はカウンターを指し示した。変わらない笑顔に安堵して、私は向かい合って腰かけた。
「具合でも悪いのかと心配したんですよ」
元気そうな顔を見て安心したせいか、少しだけ咎めるような口調になった。
「すみません、連絡も出来なくて。今コーヒーを淹れますね」
ずっと休んでいたのは本当のようで、お店の空気はしんと冷えていた。しばらく彼の立てる音を聞きながら、私はどこから話を切り出そうかと考えた。
目の前にカップが置かれると、懐かしい香りがしてきた。
「特別ですよ」
彼が悪戯っぽく笑った。初めて会ったあの日と同じコーヒーを淹れてくれたのだ。
「ありがとう」
漆黒の液面を見つめて香りを吸い込んでから、ゆっくり味わった。彼は自分の分もカップに注いだ。少し間が空いた。
「父が亡くなりましてね」
ぽつんと声が聞こえた。淡々とした言い方だったが、彼が悲しみに暮れているのがわかった。
「あんなにお元気だったのに…」
「突然でした。仕入れの帰りに交通事故に遭って」
「それは…、大変でしたね」
急なことに言葉が出てこなかった。彼も黙ってカップに口をつけた。
「この店をどうするかをいちばん悩んだのですが、他に出来る仕事もないので、僕が継ぐことにしました」
「お父様も喜ばれると思いますよ」
「そうだといいのですが。この機に店内を改装しようと思いまして、今日はその準備に来たんです」
「そうでしたか。お会いできてよかった」
私がそう言うと彼もほっとした笑みを見せた。
このまま二人で 同じ時を過ごせたらいいのに
これまでにも何度か、ふとこみ上げてきた想いに私は戸惑った。今のそれも、単に独りぼっちになった彼への同情ではなかった。全て自分で決めたことなのに、ここへ来て迷いが生じるなんて。
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