空の知らない虹

6/8
前へ
/8ページ
次へ
 夏が終わって、秋の長雨の季節が巡ってきた。 時々遠回りをしてあの喫茶店の前を通っても、いつもドアは閉まっていた。気持ちが宙に浮いたまま、時間だけが過ぎていく。 その日も私は傘を差して同じ道を辿っていた。 雨模様の視界にぼんやり店先の灯りが見えて、私は思わず立ち止まった。ずっと待ちわびていた光景だった。周りの音がかき消されるほど、自分の鼓動がうるさくて手が震えていた。バッグの持ち手を固く握りしめて歩き出すと、店の前で再び足を止めた。カウンターに人影が揺らめいて、私は思いきってドアを開けた。 ドアベルの音に彼がこちらを振り返った。会いたかったその面差しに涙が滲んだ。彼は驚いた表情を見せたが、私だと認めると笑顔になった。 「こんにちは。ご無沙汰していまいましたね」 「…入ってもいいですか」 「君を追い返すわけにはいきませんよ」  くすりと笑って彼はカウンターを指し示した。変わらない笑顔に安堵して、私は向かい合って腰かけた。 「具合でも悪いのかと心配したんですよ」  元気そうな顔を見て安心したせいか、少しだけ咎めるような口調になった。 「すみません、連絡も出来なくて。今コーヒーを淹れますね」  ずっと休んでいたのは本当のようで、お店の空気はしんと冷えていた。しばらく彼の立てる音を聞きながら、私はどこから話を切り出そうかと考えた。 目の前にカップが置かれると、懐かしい香りがしてきた。 「特別ですよ」  彼が悪戯っぽく笑った。初めて会ったあの日と同じコーヒーを淹れてくれたのだ。 「ありがとう」  漆黒の液面を見つめて香りを吸い込んでから、ゆっくり味わった。彼は自分の分もカップに注いだ。少し間が空いた。 「父が亡くなりましてね」  ぽつんと声が聞こえた。淡々とした言い方だったが、彼が悲しみに暮れているのがわかった。 「あんなにお元気だったのに…」 「突然でした。仕入れの帰りに交通事故に遭って」 「それは…、大変でしたね」  急なことに言葉が出てこなかった。彼も黙ってカップに口をつけた。 「この店をどうするかをいちばん悩んだのですが、他に出来る仕事もないので、僕が継ぐことにしました」 「お父様も喜ばれると思いますよ」 「そうだといいのですが。この機に店内を改装しようと思いまして、今日はその準備に来たんです」 「そうでしたか。お会いできてよかった」  私がそう言うと彼もほっとした笑みを見せた。 このまま二人で 同じ時を過ごせたらいいのに これまでにも何度か、ふとこみ上げてきた想いに私は戸惑った。今のそれも、単に独りぼっちになった彼への同情ではなかった。全て自分で決めたことなのに、ここへ来て迷いが生じるなんて。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加