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隣の丸椅子に座った彼は、松葉杖をカウンターに立て掛けた。
「義足を作ってもらう予定なんです。みっともなくてすみません」
「自分のことを蔑まないで。私は、あなたをそんなふうに思ったことは一度もありません」
「やっぱり声をかけなければよかった。君を悲しませるつもりなんてなかったのに」
彼は寂しげな顔で微笑んだ。
「いいえ。私はあなたに会えてよかった。こんな気持ちがあるんだって、知ることが出来てよかった」
「まったく。君には敵わないな」
彼は私の頬に片手を伸ばして、優しく触れてから唇を重ねてきた。愛おしそうに何度も繰り返す彼の仕草に涙がこぼれた。こんなに近くにいても、もう戻れない。
「泣かないで。悪いのは僕だから」
ふわっと彼に抱き寄せられて私は思わずしがみついた。誰のせいでもないのに、どうしてこんなに悲しくなるんだろう。同じ時間を過ごしたかった。彼を笑顔にしてあげたかった。でも、お互いを大切に想っていたけど、彼の心に巣食った寂しさは私には癒やせなかった。
「初めから惹かれてた。でなければ声をかけたりしないよ」
耳元で囁く彼の声に胸がいっぱいになった。
「君に貰った時間を僕は生涯忘れない。それがあればもう寂しくないから、どうか君の道を進んでください。僕の我儘に付き合ってくれてありがとう」
彼は厚みのない紙袋を手渡してきた。
「これを君に」
あの時二人で聞いたレコードだった。
「せめてもの餞です」
「大切にします」
「もう行ってください」
席を立たない私を、彼は穏やかに促した。
「これ以上僕のために泣いたりしないで。君には笑顔が似合うんだから」
飲み干したコーヒーはあの日より苦かった。ドアを押し開けて一度だけ振り向くと、彼はずっとそこに座ったまま私を見送ってくれた。最後の時になって、二人の想いが重なるなんて。
「私もあなたの雨が上がることを願ってます」
私がそう言うと彼は破顔した。
「君といたあの季節、僕の空はずっと晴れていた。僕に虹を見せてくれて本当にありがとう」
たとえ ほんのひとときの虹でも
「そんな人は初めてだったよ」
「…さよなら」
「さよなら」
彼が小さく手を挙げた。無理やり微笑んで私は外へ出た。空は明るかったが、雨足は細く残っていた。駅へ向かってゆっくり歩きだすと、また涙が滲んできた。
きっと今、彼も雨に濡れている。唇に残る彼の温もりは、私を優しく包んでいた。
いつかまた 彼の空が晴れますように
傘に隠れて泣きながら、私は心からそう願わずにはいられなかった。
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