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車内の空気は張り詰め、呼吸すら億劫になるほど重々しい。
原因は夏樹ではない。悠人だ。ハンドルを握り、前を見つめているその横顔は強張っていて、話しかけるなと纏う雰囲気が物語っている。
けれど、そんなの夏樹にとって関係ない。
「運転、変わる」
あの夏夜は恐ろしくて仕方なかったが、今の悠人はそこまで恐ろしいなんて思わない。それより、事故に遭って道連れという未来の方が考えただけで身震いする。
「いいよ。夏くん、本調子じゃないでしょ」
「なら、運転に集中しろよ」
「してる」
「嘘。してない」
夏樹の指摘に悠人は歯を食い縛る。道路脇に車を駐車するとハンドルに額をつけて俯いた。
「……さっきの」
夏樹は黙って言葉の先を待つ。
「さっきの子って」
「……はっきり言えよ」
「さっきの女の子って、夏くんの運命?」
顔を上げないまま悠人が声を絞り出す。夏樹は呆れたように息を吐いた。
「そうだとしたら、お前はどうするんだよ」
「どうって……そんなの……」
悠人は顔を持ち上げるとハンドルを握る力を強くする。どうすると問われても、分からない。運命の番と呼ばれる存在は知っていたが、夏樹はオメガとなり、自分と番ったのだから関係ないと思っていた。通常なら番がいるアルファやオメガは相手のフェロモンしか感知できない。
けれど、夏樹は確かにあの少女とすれ違う時、何かに反応した。
すぐさま少女を見つけ、捕食者のように鋭い目で喉を鳴らした。
悠人には向けてくれない、欲を宿した目で少女を見ていた。
「……分からない」
今は自分のオメガであり、番関係。それは覆しようのない事実なのだが、少女のフェロモンを感知できたのなら夏樹はアルファとしての本能が残っているのだろう。もしかすれば、彼女と番える可能性だってある。
(もし、夏くんがあの子を選んだら)
自分ではない誰かを運命と呼ぶのなら。
(嫌だな)
夏樹の視線を、興味を、欲を、向けられるのが自分ではない誰かが羨ましい。それが自分でない事が辛い。無理矢理、自分のものにした。嫌われていることは分かっている。
それでも、夏樹は自分の番。悠人が番を解消しなければ、一緒にいれると思っていた。
けれど、それは間違いだと気付いた。
夏樹と運命の間に自分は入れない。邪魔な存在にしかなりえない。
(夏くんは、どうしたら俺を選んでくれるんだろう)
考えれば考えるほど、心の中に広がるのは絶望感だけだった。夏樹の心を掴むためには、何をすればいいのか――その答えが分からず、痺れを切らした夏樹に横腹を殴られるまで、悠人は悩み続けた。
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