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夢現
蝉の歌が聞こえた。そのあまりの騒がしさに眠りから目覚めた夏樹はゆっくりと瞼を持ち上げる。淡い光がカーテンから射す光景は今は見慣れた内装だ。
あの汗と性が混じり合ったホテルではないことに夏樹は胸を撫で下ろした。
(夢……いや、記憶を思い出していただけか)
身体を捻り、隣を見ようとした時、全身が悲鳴をあげた。腕も腰も鉛のように重く、特に下半身は感覚すらない。
「あ……っ」
痛みを和らげるため声を出そうとするが乾いた喉が引き攣り、音にはならない。
「夏くん、大丈夫? お水飲めるかな?」
夏樹の呻きに反応した悠人が扉から顔を覗かせて、ベッドに横たわる夏樹を心配そうに見つめる。
「……ああ」
「無理しないで、ゆっくりね」
夏樹の上半身を優しく抱き起こし、口元にコップを当ててくれた。ゆっくりと傾けられる水は冷たくて心地いい。喉を通る水は全身に染み渡り、夏樹はほっと息を吐いた。
「……なんだよ」
「身体、大丈夫? 無茶させちゃったから」
「そう思うなら途中で止めろよ」
「だよね、ごめんね……。夏くんが可愛いくて」
悠人は申し訳なさそうに眉を下げるが、その表情はどこか嬉しそうに歪んでいた。夏樹は視線をずらし、空になったコップを押し返す。それだけで腕は軋み、痛みが走るが悠人の前で弱い自分を見せたくないので我慢する。
立ちあがろうと身体を滑らし、床に足を付けた時、シーツから覗く足が素肌な事に気がついた。昔より肉付きがいい足にはいくつもの赤い花が咲いている。悠人の執着を表すような数に夏樹は舌打ちする。足だけでこれなら身体全身はもっとひどいに違いない。
「こんなの付けるなよ」
「我慢できなくて。お風呂、行くの?」
シーツを身体に巻きつけて、風呂場へ向かおうとする夏樹を見て、悠人は不服そうに唇を尖らせた。
「いいだろ、別に」
「夏くんが寝ている間、お風呂入れたし、ご飯にしない?」
それは知っている。あれだけ舐められ、喰われたのに肌はさらさらだ。
「……お前に洗ってもらわなくても自分でやれるんだよ」
「でも、この後、病院行かなきゃだし、お風呂行っていたらご飯の時間なくなるよ?」
病院? と夏樹は首を傾げる。オメガへの移行期間——擬似発情で浮かれた脳をフル稼働させるが、病院に掛かる理由が分からない。
「発情期が終わったら再検査に来いって言われていたの覚えていない?」
「あ? ……あー」
悠人に言われて思い出す。ビッチングを受けたアルファの症例は少ないため、病院側からは擬似発情期間中の体温測定や食事内容の詳細な記録を提出するよう求められていた。この期間中、急激にフェロモン量が増加し、通常は存在しない臓器が形成され、筋肉量や骨密度など全身に変化が起こる。
その数少ない症例の一人として、病院も注意を払わざるを得ない。今後のために記録を欲するのは医師の端くれとしても気持ちはよく分かる。
(発情期、終わったのか? もう少しかかると思っていたんだけど)
身体はまだ熱っぽいが、番である悠人が終わったと言うなら、それが正しいのだろう。アルファは番の体調変化に敏感だから。
「担当の先生、午前中しかいないらしいし、あっ、夏くんが嫌なら今度にしようか?」
「……飯はいらない。シャワー入る」
悠人の気遣いを夏樹は断る。現在を突きつけてくる病院は嫌いだが、悠人に無理矢理オメガにされた身体は何が起こるか分からない。第二の性は大学で学んだが専攻ではないため、嫌でも病院に行って、自分の身体を知らなければならない。
「……そっか。じゃあ、服を準備しておくね」
視線を向けることなく、ああ、とそっけない返事をし、夏樹は風呂場へ向かった。
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