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扉を開けて、診察室を後にすると悠人が早足で駆け寄ってきた。その表情は置いていかれた子供のように歪んでおり、夏樹は苛立ちを覚える。
「どうだった?」
「……フェロモンも落ち着いているし、子宮もできてるって。それで、こど——」
——子供、産めるよ。
その言葉が口からでかかり、急いで手で覆う。
まるで自分が悠人の子供を望んでいるかのようだ。これ以上の屈辱を味わいたくなくて唇を噛み締め、俯くと悠人が焦る気配がする。
「き、気持ち悪い?! 先生呼んでこようか?」
「……いい」
「なら吐き気止めも処方してもらおうよ」
「いいから。放っておいてくれ」
ここが病院の待合室なのを忘れて強く言えば、悠人ははくはくと口を動かし、うなだれる。
「……ごめん」
無言のまま、会計を終えて、病院を出ようとした時、ふわりと甘やかな香りが漂ってきた。お菓子のような、花のような。いいや、それよりも香りは甘ったるい。
それでも不快になるものではなく、もっと嗅でいたいと思わせる匂いに、出どころを知るべく、夏樹は首を動かした。
香りの元は一人の少女だった。小柄で柔らかそうな肢体を制服に包み、母親と思わしき女性に肩を支えられて病院に向かって来ている。ハンカチで口元を押さえているため、目元しか分からないが猫のように丸い瞳が印象的だ。
「……夏くん?」
急に立ち止まった夏樹を不思議に思ったのか悠人が袖を引く。
それでも夏樹は少女から目を逸らせないでいた。
「——俺のオメガ」
喉が渇く。その細い身体を組み敷き、うなじを何度も噛み、身体の奥に精を注ぎたい。悠人の指が夏樹の袖を引っ張っていなければ、本能のままに少女を自分のものにしていた。
「……悠人、帰ろう」
今にも無くなりそうな理性を総動員させる。悠人の腕を掴み、早足で少女の横を通り過ぎ、車へと向かった。
通り過ぎる際、香りは一層と華やぎ、夏樹の思考を絡め取ろうとするので息を止めて、唇を噛み締めた。渇いた口内に血の味が広がる。唾液か、血か、唇からこぼれた何かが首筋を伝う。
その不快感と痛みに、塗り替えられたはずのアルファの本能と戦いながら、早急な手つきで乱暴に車の扉を開けた。中に滑り込み、扉を閉めると同時に息を吐く。
運転席に腰掛けた悠人の腕を掴み、「早く出してくれ」と懇願した。
(彼女はオメガだ)
夏樹は口元を覆い、体を丸め込む。こうでもしないと今にでも少女の元に駆け寄ってしまう。
(俺のオメガ、俺の運命。……なんで、今なんだよ)
遺伝子レベルで惹かれ合う稀有な存在。
本来ならアルファである夏樹と番っていた存在。
大切で愛おしい存在に、こんな堕ちた姿なんて見られたくはなかった。
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